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山には近いけど
閑静な住宅街だった
仕事帰り
疲れていた俺は ゆっくりと
車を走らせていた
突如 目の前に
巨大なエゾシカが飛び出し
慌てて ブレーキを踏む
カシャッという
妙に 空虚な音
シカはそのまま走り去った
車は?!
一度エンジンを切り外に出て観察してみる
バンパーは左右均一に大小の亀裂を無数に作ってはいるが損失した部品はない
ボンネットはまるで熱で溶けたかのようにグニャリと内側に捲れ込んでいる
恐らくフレームが変形し内部の機器は危機に瀕しているかも知れない
運転席に戻りエンジンをかける
車のエンジンは
何事もなかったように静かに動いている
運転しながら聞いていた坂口安吾の『白痴』を朗読するCDの男の声は少しも躊躇することなく語り続ける
その物語の中で27歳の主人公の男は空襲で爆撃され燃え盛る火の手が迫っているというのに逃げるのを躊躇っている
もう少し
もう少しだけ頑張って逃げるのを遅らせようとしている
なぜなら主人公は隣家の人妻であった白痴の女と密かに同棲しているためだ
白痴の女といっしょに逃げる姿を誰にも見られたくないために周囲の人々が完全にいなくなるまでは逃げられないのだ
そんなつまらない世間体のために『もう少しだけ』逃げるのを待ったばかりに死ぬかも知れないと怯えつつも逃げられずにいる
彼は『もう少しだけ』世間体にこだわり『もう少しだけ』白痴の女と共に生きたいと望んでいるため燃え盛る炎と煙に包まれながら『もう少しだけ』逃げる訳にはいかずギリギリの窮地に追い込まれながらプライドとか愛とか人間そのものの存在を追求したりしているのだ
もしかすると俺は
もう少しだけ 仕事に打ち込んで
もう少しだけ 遅い時間に
この道を通過したなら
エゾシカに出くわすことなどなかった
あるいはまた
もう少しだけ 手際良く仕事を切り上げ
もう少しだけ 早い時間に
家に向かっていれば
エゾシカにぶつからずに済んだのだ
その僅かな時間差を
なぜ俺は調整できず
まったく1秒の狂いもなく
何の連絡も取り合っていないエゾシカと
まるで奇跡的なタイミングで
ここで激突しなければならなかったのか
白痴の主人公は命がけで『もう少しだけ』粘った結果うまく白痴の女と猛火を潜り抜け未来へと走り出した
主人公の力ではどうにもできない戦争という悲劇の中で『もう少しだけ』プライドを持って生きることを切望した男の祈りの鋭さを思う
それに対し
俺は一編でも後世に残る芸術作品を生み出したいという想念を抱きつつ格別な努力も挑戦もせず日々の仕事に明け暮れ盲目的に疲れを引きずりながら夢を実現しようという祈りの脆弱さを許し続けていたためにエゾシカに当たったのではないかという全くもって不条理な論理が腹の底でモゾモゾ蠢く
『もう少しだけ』強く明確に作家になろうと切望し命ギリギリまで努力していたなら俺はエゾシカと衝突する事もなく無事に家に帰り着いたのではなかろうか
武士は食わねど高楊枝である
作家たるもの例え生活の雑事や他の仕事に振り回され体力と時間をいかに奪われようとも少しもそんなそぶりは見せず悠々と風格ある芸術作品を創作しなければならない
それくらいのことができないなら作家になどなれる訳がない
それくらいのことは当然やってのける意地と気合いで命ギリギリ鋭く強く作家として立とうと切望していたならエゾシカに突っ込んだりしなかったのだ
ああ コロナ禍で疲れ切っている肉体と経済事情に厳し過ぎる車の崩壊という事実
しかしながら
落ち着いて考えてみる
エゾシカに責任はない
彼の不注意を咎めることも筋違いだ
彼に幾ばくかの判断力があったとしても彼の判断ミスを追及したところで虚しいばかりだ
それはまるで彼に当たった瞬間のカシャッという乾いた空気を含んだような微弱な音と同じような虚しさだ
全損という冠を被せられた車の最後の音が耳よりも胸を締めつけたのは羽根のように軽やかな音があまりに意外だったためだ
ズガンとかガシャンとかドドーンとかいう下品なけたたましさからは程遠い慎ましく柔らかで幻想的ですらあった最後の崩落
車の技術の粋を極めた素材の脆弱さが搭乗者の肉体を護る仕組みを体感する
イヤ体感すらしていない
シートベルトさえ作動していないのだから驚愕する
ボンネットやフレームやバンパーは複数箇所均等に曲がり破損したものの車体全体で向かい来る大きなエネルギーを受け止め吸収してしまったから俺にはコツンとさえ響きはしなかった
『白痴』の主人公はズドズドズドというけたたましく地の底まで揺るがすような激しい爆音と灼熱の炎に命の不安を感じる刹那に恍惚と酔いしれ哲学している
人間の死体が焼き鳥のように転がり内臓が飛び出し飛び散り手足や首が千切れた異常な光景の中でむしろ快活に芸術家魂を発揮し窮地に立たされて初めて湧き起こる新しい感覚を一つ残らず書き残そうと息喘いでいる
『もう少しだけ』窮地の最中にありながら更なる窮地に突き進み自分の叡智とプライドと愛と生への欲望のすべてを投入して来るべき敗戦後の新世界を体験したいと渇望している
そうだ『もう少しだけ』俺もこのささやかな窮地を掘り返し自分の芸術家として進むべき道を哲学してみよう
舞い降りた奇跡は例え正の奇跡も負の奇跡もチャンスである
その衝撃により撹拌され渦巻く心の粒子を如何に整然と沈殿させるべきか反省し心機一転する絶好のチャンスだ
硬く鋭いモノを武器にする時代は終わったのだ
無数の柔らかな肉体を犠牲にして激しい熱と光と音を出し切り新しい時代は到来した
かつて予期しない攻撃から身を守るために必要だったのは頑丈な防空壕だった
だがたった今
予期しない衝撃から俺を護ったモノは脆弱な柔らかさであった
そろそろ根底から考え直せと鹿に姿を変えた神が御告げに現れたのだ
力任せに生きるのはよせ
弱さも儚さも優しさも柔らかさも崩壊や破壊や傷や微かな音や匂いや気配さえも人間を危険から護り新しい明日へと導く大きなエネルギーとなり得るのだと
具体的に肉体が熱や恐怖に晒されながら哲学した坂口安吾が生きた時代
ネットやCGという具体的な熱や柔らかさを持たない現実に晒されながら哲学する現代
巨大なエゾシカという大自然の象徴と交錯した結果カシャッと紙のように潰れた車
エゾシカとの衝突事故は始めから終わりまで静粛に執り行われた神に仕組まれた儀式だった
生まれ変わろう
まるで何を言っているのかわからないという君は現代社会を正しく生きる平衡感覚が発達した健全な社会人だ
安心したまえ
俺に共感する芸術家気取りの御仁は時代の亀裂に嵌まり込み窒息する覚悟がなければ芸術も大概にした方がいい
だろ?
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