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「小さい頃、わたしはパイロットになりたかったの。なぜだと思う?」
唐突に、彩花が切り出す。
「わからない。どうして?」
「わたしね、星空が好きだったの。あの無限に広がる夜空に煌くスターを、一つでもいいから手に取ってみたかった。だからパイロットを夢見ていたの」
「へえ。彩花にしてはロマンチックだね」
「わたしにも、そんな少女時代はあったの。その純粋な心が擦れたのは、多分中学生の頃だったと思う。はっきり言うと、母親が不倫したの」
ふうっと吐く息と、名も知らぬカラスの雑な鳴き声が混ざる。彩花は薄汚れた色味のない階段のアスファルトを、何度か指で擦った。
「一瞬で、母親がこの床みたいに汚ったない存在になったよね。しかも、不倫した相手は、億越えの収入があるホストだって聞いたとき、今までにない悪寒がしたの。同時に、そんな母親の遺伝子を引き継いでいることが恥ずかしいとさえ思えたの。そんな人の母乳を飲んで、そんな人に育てられた自分の人生が腐食したの」
「それは、悲惨な過去だな」
「ほんと、醜い過去よ。わたしは中学を卒業すると同時に家を出た。わたしの父も相当な馬鹿でさ、不倫した母親のことを呆気なく許したんだよね。母親は母親で父にすがって、上部だけ謝って。結局、最終的には美談みたいになったの。それがわたしには心底気持ちが悪くて。耐えきれなくなって、家を出るしかなかった」
だが、もちろん無一文な少女が生きていけるはずがない。俺は、踏み込みたくない彼女の過去に、あえて触れてみる。
「独りになった彩花が、その後どうやって飢えを凌いだのか、俺にはなんとなく想像ができるけど、そこは耐えられたの?」
彩花は二本目のタバコに火を灯し、「わたしも、大概愚かだからね」と自虐的に苦笑いした。
「高校に行かず、とりあえず働けるところを探したけど、もちろん現実はそんなに甘くない。そんなときに出会ったのが、斉藤さんって金持ったおじさんだった。最初はすごく優しくて、面倒見のいいおじさんだった。家族の存在を疎ましく思っていたわたしにとっては、斉藤さんはイエス・キリストみたいな存在。そうね、俊幸が好きなバンド、なんだっけ?」
「NIRVANA」
「そう。そのバンドのボーカルに出会って優しくされたら、従うでしょう?」
「もちろん。カート・コバーンにだったら一生ついて行くさ」
「あのときのわたしは、まさにそんな気持ちだった。でも、斉藤さんは次第にわたしに対する欲求を増やしていくの。あとは想像に任せるけど、結構醜いことされたな。多分、訴えたら勝てたね」
十二月の肌を擦るような冷たい風が吹き荒れている。そろそろ寒波が到来するとは聞いていたが、身震いするほど寒い冬が来てしまう現実を、俺は心底憂いた。
「で、どうしようかなって思っていたときに、あなたの先輩に出会ったの」
「スカウトだっけ?」
「そう。よほどわたしのメイド姿を見てみたかったんでしょうね。秋葉原の道端で、『お願いします、僕の店で働いてください』って土下座する男、初めて見た」
「そいつは後輩として恥ずかしい限りだな」
「でも、そのときは二つ返事で了承した。たとえ斉藤さんの元で生きていくことができたとしても、それは肉体だけ。精神は、お陀仏状態になっちゃうから」
そうして彩花がメイドカフェで働くようになって三年。最初の一年は先輩が借りてくれた一Kのアパートで暮らしていたらしいが、今は一LDKのモダンな内装をしたマンションに暮らしている。ついこの間遊びに行ったとき、俺よりも広い部屋に住んでいて、思わず「女っていいな」と嘆いてしまったのだ。
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