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携帯の時計を見ると、すでに十五分ほどが経っている。
「そろそろ、休憩終わりか」
しかし、彩花は一向に立とうとしない。それどころか、三本目のタバコを
セットしている。
「もう少しだけ、ここにいる」
「おいおい、サボりか? クビになるぞ」
「ならないでしょ、一回くらいじゃ」
「それもそうか。そういえば、この店の店長はお前にゾッコンだったな。じゃあ、俺もサボろっかな」
俺も再び腰を下ろして、思い切り地べたに座って、階段の柵の隙間から、秋葉原の裏通りを眺める。
「それにしても、変わった街だよな」
表通りの街中を歩くのは、アニメ好きなオタクやサラリーマン、暇をしている大学生ばかり。ただ、一本入ったこの道には、客引きをするメイドやガラの悪い兄ちゃんも加わる。様々な価値観と匂いが混ざり合い、カオスと化している街。東京には、こんな場所がいくつも存在する。
「東京って、もっと美しい街だと思っていたけど、ここに来るとただの幻想だって気づかされるよ。泥臭くて、みんな必死で生きている。表では楽しい顔をしているけど、本当は苦しくて、悲しくて。ある日突然、なんだか虚しくなることもあるの。それでも、みんな今日を過ごしている。不思議なくらい、抵抗しないで」
「争うことが嫌いなんだろう。太平洋戦争や学生運動は遠い昔の話ってわけだ」
「そうね。よく言えばお利口さん。悪く言えば、自己中」
「人間なんて、そんなもんだろ。自己中で生きていなきゃ、やってられないさ」
数年前に禁煙に成功した俺も、彩花と一緒にいると無性にタバコが吸いたくなってしまう。鬱屈とした気持ちが全面に押し出されて、この世の歪みを目の当たりにしている気がして、肺が煙を欲しがってしまう。
「わたしね、少しくらい、理想だけで闘うヒーローがいてもいいと思うの。純粋で、正義感に溢れていて、誰にでも気遣いができる。そんな人間が少しくらい活躍できたらいいなって、本気で思っちゃう」
「そいつは、随分と大それた空想物語だな」
俺は彩花をせせら笑った。くだらねえ、と言いたい気分だった。
ただ、彩花は真剣な眼差しを崩さない。その眼は、おそらく彼女が少女時代に持っていた眼。俺はびくりとしてしまった。
「そんな恐い目で見ないでくれ。俺の自尊心が崩壊しそうだ」
「ごめん。別にそんなつもりじゃなかったんだけど、ただ、わたしの願望が叶ってくれないかなって思っただけ」
「願望か。叶ったらラッキー、くらいに思っていないと、期待のし過ぎは禁物だ」
しかし、彩花は首を縦に振らない。いや、振りたくないのだろうか。
「どうして、わたしの母は不倫なんてしちゃったんだろう。あんなことしなければ、わたしはもっとマシな人生を送ることができたのに。斉藤さんからひどい目に遭わずに済んだのに。メイドカフェで働かなくて済んだのに」
このとき、氷よりも冷たく感じた階段の上に、二、三粒の涙がこぼれた情景を目にして、俺はなんともいたたまれない気持ちになってしまった。
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