ドンと行け!

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 俺は東京のど真ん中にある路地裏で、誰にも言えない悩みを抱えている。 「おい、逃げるなよ。弘次」  イカしたスカジャンを着た馬鹿が、俺を見つけて近寄ってくる。 「おいおい、いったいどうなってるんだよ」 「難しいことは考えるな。とりあえず、俺の話を聞け」  そんなことを言われても、今の俺は完全に錯綜状態に陥っていてしまっている。とても、冷静に現状を受け止められそうにない。 「聞けるかよ。おいお前、どうやってこの世界に来たんだ? そもそも、お前は誰なんだ?」  すると、目の前にいる汚らしいほど髪と髭と眉の毛を伸ばした男が、「お前は誰だって、お前は俺だろ」と簡単そうに言って、悪戯に笑った。 「お前は俺。俺はお前。それだけの話だ」  それが理解できないのだ。 「意味がわからねえんだ。なんで俺の顔をしたお前が、今俺の目の前にいるんだ? どういうことか説明してくれ」 「そうだな。これは俗に言う、パラレルワールドってやつだな。SFに興味がなくとも、一度くらい聞いたことあるだろう?」 「ああ、よくドラマや映画で出てくるあれか」 「そう、あれだ」  だけども、俺はちっとも納得できていない。なぜ、この世界にパラレルワールドが存在しているのか、きっと科学者も説明できない状況が、なぜ俺の目の前で起こってしまっているのか。 「とりあえず、この状況を説明してくれないと、俺は先には進めねえな」  しかし、俺の顔した生意気な男は、なぜか俺を見てせせら笑っている。 「説明も何も、俺は別世界からお前を変えに来た。ただ、それだけだ」 「俺を変えに来た? いったい何のためだ」  すると、もう一人の俺は不屈そうな顔をして、ポケットに手を突っ込んで天に向かって長々と息を吐いた。 「この世界のお前は、はっきり言ってつまらない。徒然の極み。退屈を固めた男だ。俺はそんなお前を見て、心底苛立ちを募らせている。だからお前を変えたい」  退屈。今度は俺が笑う番だった。 「この俺が? 結婚間近の彼女がいて、営業の仕事も順調で、愚痴を語り合う友人もいる俺が、退屈な男だと? 馬鹿言うんじゃない。俺は実に充実した人生を送っているんだ。これ以上望むことなんてねえよ」 「そうだ。たしかに、この世界のお前は一見順風満帆かもしれねえな。だが、お前は大事なものを失ってしまった。それが何か、お前にわかるか?」  俺が失ったもの。顎に手を当てて少し考えてみたが、まるで見当もつかなかった。 「さっぱりわからねえ。答えを教えてくれよ」 「やっぱりわからねえか。そいつは残念だな」  目の前の男はまた、大袈裟にため息混じりの息を吐く。いちいちイライラさせる男だと、俺はデカい音で舌打ちをする。 「そいつはな、夢だよ」 「夢?」  漠然とした、巨大な言葉。一瞬、心臓が大きく揺れた気がした。 「そうだよ。今のお前には、夢が無い。ドリームが空っぽな状態なんだよ」  そういえば、俺はいつしか夢を捨ててしまった気がする。ただ、それはこの世界に生きるほとんどの大人が通過することだ。ガキの頃は夢だとか希望だとか、可能性に期待して、輝きを求めて突っ走ったものだ。    だが、大人になれば生きることに必死になる。だから夢なんて巨大で邪魔になる荷物は、どっかに置いてきてしまう。いずれ夢を抱いていた過去は色褪せていき、今だけを楽しむ生き物へと進化していく。  それでも、目の前にいるこいつは、今の俺の考えとは全く異なるらしい 「いいか。夢を失った人間からは、太陽みたいな光が無くなるんだ。気怠さを抱えた棒人間になって、いつしか輝きが消える。光じゃなくて闇になってしまう」 「闇か。俺はそう思わないけどな」  しかし、もう一人の俺は「つまらねえ、つまらねえぜ、お前」と何度も「つまらねえ」を連呼するのだ。 「あーあ、くだらねえな。お前はわざわざそれを伝えるためにこの世界に来たわけか。ご苦労さんだな」  だが、もう一人の俺は近くに転がっていた空き缶を蹴り飛ばして、ギロリと俺を睨んだ。 「お前、話を聞いてなかったのか。俺はお前を変えに来たんだ。さっき言っただろう」  そういえば、そんな台詞を吐いていた気がする。ならば、いっそのことご苦労さんだ。 「悪いが、俺は変わるつもりなんて一ミリもないんだ。俺は今の生活に満足している。安定と安心、それと純愛。素晴らしい人生じゃねえか。それに、俺はそこまで欲を出さない人間なんだ。だからこれ以上、何もいらないのさ」  だが、目の前にいる俺は、全く納得した顔をしない。しかめっ面を崩さず、むしろ眉間にシワが寄ってしまっている。 「十五の頃のお前は、こんな人生を求めていたか? こんな毒にも薬にもならない大人になりたいと願っていたのか? そんなわけねえよな」  若かりし頃の俺。それは、おそらく夏の日差しよりも眩しい存在だった、あの頃の俺。 「そんなもん、知るかよ」  胃が、ヒリヒリする。胸に溶岩でも垂らされたように、グッと熱くなる。なんだこいつ、俺を内面から殺す気か? 「お前は、周りの人間とは違う男になりたかったはずだ。異端児と呼ばれてもいい。それでも、お前はこの世界をびっくりさせるほどのロックスターになりたかったはずだ。そうだろう?」  そんな過去もあった。昔の俺は随分と捻くれていて、この世界に生きる全ての人間が敵とさえ思っていたこともあった。そんな俺を強くしたのは、一本のギターだった。ある日、たまたま聞いていたラジオで流れた尾崎豊の曲を聴いて感銘を受けた俺は、それから毎日のように弦をかき鳴らし、世の中に向けた反発の言葉を叫んでいた。 「それは、若気の至りだ。今の俺は違う。今の俺は、この世界に納得して生きている。だから、もう」 「本当か? それはお前の本心か?」  俺の心臓のど真ん中に目掛けて、鋭利な矢がストンと刺さる。本心。俺は、本当にこんな生き方を望んでいただろうか。ありきたりな生活。単調な人生。甘くもなく、辛くもなく、無味無臭な人間。俺は、本当にそれを望んでいただろうか。 「今からでも、遅くねえだろう。いつかお前が捨てた夢に向かって、走り出せるんじゃないか?」 「でもよ……」  いくらなんでも、三十になった俺がガムシャラになるのは恥だと思う。どこかでブレーキをかけてしまう自分がいる。リスクよりも安定。ロックよりも平凡。ギターよりもパソコン。 「実はな、俺も今年ようやくデビューしたんだ」 「え?」 「去年まで、俺はお前と全く同じような生活をしていたんだ。だけど、それがどうにもしっくりこなくて、俺に何が足りないのか考えたら、夢だって気づいたんだ。だから、俺は夢を追うことにした。夢に向かって、走り出すことに決めたんだ。だからお前も悔いを残したくねえなら、夢に向かって走れ」  俺の脳内で、荒々しい弦をかき鳴らす音が鳴り響いている。いつしか、温もりばかりを求めるようになっていた人生。周りに合わせて、自分を守ろうとばかりしていた人生。  それは、俺じゃない。俺の皮を被った誰かだ。 「目が覚めたよ。今の俺は、俺じゃない。夢に向かってガムシャラにでも走り続けるのが、俺だよな」  目の前にいるもう一人の俺は、初めて笑みを浮かべて俺に言った。 「そういうことだ。道は険しいかもしれねえが、お前らしく生きるには通らなければならない道だ。大丈夫だ、ドンと行けばいい。自信を持って走り出せ」  あばよ。風と共に、もう一人の俺は去って行った。取り残された俺は、自分の両手を見る。すっかり腑抜けた手をしている。 「帰って、チューニングでもするかな」  俺は靴紐を結び直して、東京も街を走り抜ける。
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