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となると、やっぱり俺には可憐で華麗な久我山さんしかいない。
久我山怜さん。
その凛とした印象の名前とは違い、ほんわかした雰囲気に雲のように白い肌。
吸い込まれてしまいそうになる大きな瞳。
さしずめ黒目は小さなブラックホール。
眩い笑顔は夏の西日のように眩く、ときに目を閉じてしまうほど。
フワフワのスフレのような髪の毛。
走る姿も普通だ。
手をチョップの形ではなく、キチンとグーにして可愛さ重視で走っている。
かと言ってやる気がないということではなく、一生懸命走っていてる。
速すぎず遅すぎず。
息を切らして走ったあと、彼女の吐く白い息はハーブティの湯気のように温かく空へゆっくりと昇っていった。
それをよく見つめたものだ。
一年のときに冬の訪れをそれで感じた。
木枯し何号でではない。
近所の焼芋屋でもない。
さらに彼女は性格も素晴らしい。
前の席で生徒が落としてしまった消しゴムを、彼女より近い席の生徒より先に拾っているその姿。
差し出すときの「はい」というイルカのような柔和な表情は、そうだ僕達は哺乳類なんだということを思い出させてくれる。
そう、消しゴムを落とした前の席の張本人は俺だ。
その消しゴムはもちろん永久保存版。
部屋の棚の高いところに置いてある。
芳香剤のような扱いだろうか。
それから俺は常に後ろに久我山さんの存在を感じながら授業を受けることになった。
後ろに彼女の存在を感じていると尻に火がついたようだった。
あれはまだ春先だった。
季節外れの蛍になった俺。
もれなく成績は落ちた。
蛍は儚い生き物だ。
しかし同時に何かを得た。
人は、蛍は何かを失って初めて何かを得るのだと、このとき分かった。
後ろにプリントを配るとき、常に緊張が俺を襲った。
手が震えた。
たしか一度不意打ちで後ろからプリントが回ってきたことがあった。
俺は久我山さんに肩か背中かよくわからない場所をトントンと叩かれた。
たぶん背中だ。
反射的にすぐ後ろを振り返る。
不意打ちの久我山スマイルがそこにはあった。
プリントが一瞬目に入らなかった。
そのときの笑顔が一週間、俺の脳を支配し続けた。
脳の中の自分の領地が撤廃された。
最高の心地だった。
毎日ドキドキが止まらない夢のような三ヶ月間だった。
俺の名字が木山で良かった。
木山だから久我山の前に座れたんだ。
先祖に感謝。
親に感謝。
名前の順で席を決めるという一学期の風習に感謝。
しかし迎えた二学期、俺と久我山さんは席替えというまた別の風習による運命の悪戯によって引き裂かれてしまった。
俺は初めて席替えという風習を呪った。
俺は一番窓側の列。
久我山さんは一番廊下側の列。
合間に流れる深い河。
織姫と彦星のように一年の一学期しか逢えなかった俺たちは裂かれてしまった。
これが恋の試練というならば、なんて残酷な試練なんだ。
こんなことなら、前の席のときになんとかかんとか喋りかければ良かった。
夏の限定ハンバーガーの話とか。
きゅうりとなすび、どっちがいい曲がり方してるかなとか。
後悔に後悔を重ねるとさらに湯冷めが加速してきた。
慌ててジャージを着る。
久我山さんもこんな中学校のときの体操着をパジャマ代わりに着たりすることがあるのだろうか。
だったら俺は言いたい。
「逆にありです」と。
ふと部屋の外を見ると、母ちゃんが凄い形相でこちらを見ている。
しまった、姉ちゃんに入れ知恵されて俺の頭がおかしくなったのかと思って様子を見に来やがったのか。
パンツ一枚でにやけながらベットに仰向けで天井を見上げてニヤついている高校生。
まごうことなき健全じゃないか。
健康体そのものじゃないか。
だが母ちゃんは何も言わずに階段を降りていった。
せめて何か言えよ。
人の噂話を餌に生きる猛禽類どもめ。
いつまでも俺が子供だと思うなよ。
俺がこの数週間で四人の女子から告白されたとも知らずに。
それにしてもこの短期間で四人か。
やはり、明日も誰かに告白されるんじゃないか。
俺はまだ見ぬファンの姿を想い、健康と美のためにその日はもう寝ることにした。
まだ夜の九時だった。
前までだったら考えられない。
むしろ夜の始まりの時間だ。
意識が変われば行動が変わるものだ。
俺は満足気な笑みを浮かべながら電気を消した。
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