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「行こう」
とうに電気の消された学習塾の駐車場でうずくまっていた私に、彼女は屈託のない笑顔と白くて繊細な手を差し出した。
反射的にその手を取る。月明かりに照らされた夜道を、私たちは走り出した。
手をしっかりとつないだままで、まるで何か良くないものに追われているかのように、行く先に素晴らしい何かが待ち受けているかのように、全力で。
私たちは別々の人間なはずなのに、つないだ手を伝って彼女の感情が流れ込んでくるかのような、生まれたときからふたりでひとりだったのような一体感で走る。走る。
太陽が沈み月の光が世界を支配する深夜の時間帯であっても、真夏の盛り。少し走っただけでふたりとも玉のような汗をかいていた。それでも、彼女は止まらない。彼女に手を引かれるまま、私はひたすらに寝静まった街を駆けていく。額から流れる銀色の雫を彼女は細い手首で乱暴に拭った。私の少し前を走る翻る白いセーラー服が、なびく色素の薄いつややかな髪の毛が、月の光に照らされてきらきらと輝いている。
きれい……。
ぽう、と見惚れペースの遅れた私に、彼女はつないだ手を軽く振りながら「たのしいね!」と笑いかける。
「このままどこまでも走って行こ! あたしたちふたりで!」
こんなに走っているのに、夢の中にいるみたいに全然疲れない。まだまだ走れそうだ。いつの間にこんなにも体力がついたのだろう。冬の間中、体育の授業で嫌々ながらさせられた持久走のおかげだろうか。となりで笑う彼女もちっとも息切れをしていない。涼しい顔で走り続けている。まだ、そう長い距離を走ったわけではないのかもしれない。
ふたりで、夜の街を駆けていく。駆けていく。駆けていく。
私たち以外誰も歩いていない道路。一台の車さえ通らない道路。お利口さんに道のはしっこに据えられた歩道を通る必要がどうしてあるだろう。
私たちは、道のど真ん中を堂々と走った。
あははは、と笑いながらどんどんどんどん、進んでいく。
頭上ではLEDライトの信号機が赤、青、黄、と順番に点滅している。昼間にはなくてはならない存在なのに、今は誰も必要としていないのがおかしかった。
「律儀な信号機」
私がつぶやくと彼女は「なにそれー」と言って笑った。
等間隔に設置された街灯を一体いくつ追い抜いただろう。
暗い空に映える人口の光の海。その遠く深く、果てしない距離の先に、小さな星々を従えた満月。いつまでもどこまでも、地上を駆ける私たちに健気についてくる。それとも私たちが月に向かっているのか。暗い世界で人知れず輝くことしかできない月に、なんとなく親近感が湧いた。
深夜の街は、静かで、誰も彼もが寝息を立てている。起きているのは、か細い身体を携えた私たちと24時間営業のコンビニと自動販売機ばかり。
走るのに疲れた私たちは道の真ん中で自宅かのようにくつろいで、座っておしゃべりをしたり(そこそこ大きな通りのわりに、本当に一台の車とも会わなかった)、手をつないでゆったりと歩いたりした。
見上げた空の色がおしゃれなバーにあるカクテルのように青や群青やたくさんの青色のグラデーションになっている。夜の終わりに近づいている。さすがに、ふたりとも本格的に疲れを感じ始めた。しっかり握ったままの手のひらから、彼女の思ったことは文字通り手に取るようにわかった。
朝が今にも顔を出しそうな未明の時間。けれど私よりも体力に自信のあるらしい彼女は、また急に私を引っ張って走り出した。そういえば、彼女は陸上部だったっけ。ふいに思い出す。足が疲れていたけれど、手をつないで彼女と一体になって走るのはたまらなく楽しかった。
街明かりが流れていく。静寂に包まれた街に、ふたり分の荒い息遣いとぱたぱたとなる足音だけが妙に大きく遠くまで響いている。走る度に翻る白いセーラー服と青色のスカートの彼女が、なぜか急に儚く消えてしまうような、夜の終わりにとけていくような気がした。そうはさせるものか、と私はしっかりと彼女の手を握る。力を込めれば、応えるように握り返された。
とはいえ、とくに運動部に所属しているわけではない私の体力は底を尽きかけていた。歩こうよ、と提案しようと思ったけれど、彼女の明らかに校則違反と思われる膝上10cmのミニスカートから覗く、白くて細い脚はスピードを緩めることなく動き続けている。その横顔を覗き見れば、なにか固い意志を持っているかのように前を見据えて駆けていく。
それからいくつかの信号機と街灯と自動販売機を過ぎた頃。とうとう彼女について行けなくなり、しっかりとつないでいた手を、初めて自分から離した。
膝に手を当ててはあはあと肩で息をしている私を、振り返って彼女は大きな黒い瞳で見つめた。
「大丈夫?」
「ね、どこまでいくの? 私もう疲れたよ」
その場に座り込んでしまった私の問いに、彼女はなんでもないことのように答える。
「どこまででもいけるよ」
「でも、目的地はあった方がいいよ」
人は、目標がないと頑張れない生き物だから。
私の言葉を聞いて不思議そうにしていた彼女は、やがてにっこりと笑った。
子どものように無邪気に目を輝かせて、じゃあ、と両手を大きく空にかざして言った。
「月に行こうぜ!」
座り込んだ私は、思わず月明かりに照らされた彼女を見上げた。
いつだって私に向けられる屈託のない笑顔とまんまるの月を背負った姿に、私たちならそんな現実味のないことでさえも、できるような気がした。わざとおどけたように言うけれど、彼女の黒い瞳におふざけの色は浮かんでいない。今このとき、彼女は本気で一緒に月に行こうと誘っているのだ。そして行けると信じているのだ。
「馬鹿なことを言うな」「できるわけがないだろう」だなんて、いつでも悪気のない正論で私たちをぐさぐさと刺し殺す大人たちは、昼の世界に置いてけぼりだから。月の支配する暗い世界では、そんな野暮なことを言うつまらない生き物は絶滅した。
私たちを縛るものはなにもない。突拍子もないお誘いに、冷静な断り文句なんていらない。
知らずに口元が緩む。疲れなんて吹き飛んでしまった。
「うん!」
行こう! と再び差し出された細い手を取って立ち上がる。今度は私が彼女を先導するように駆け出した。
月には一体どんな楽園が広がっているのだろう。きっとそこは一生楽しく過ごせる永遠のネバーランド。私たちの帰る場所。
「月まで行くぞー!」
「おー!」
力の限りに叫んだ私のあとに、彼女の楽しげな声が続く。
白くきれいな彼女の手に、五本の指まで絡めて。私たちは私たちに優しくない世界を捨てて歩いた。
白いセーラー服姿の女の子がふたりだけ。世界にふたりしかいないみたいに、初めからひとつの生き物だったみたいに、寄り添って歩いた。
小高い丘を登るとさびれた公園があった。入口に設置された古ぼけて孤独な自動販売機でジュースを買う。意識してみればひどく喉が渇いていた。空はだんだん白み始めている。私たちは青い塗装のところどころがはげてしまって錆びた鉄色を晒すジャングルジムのてっぺんに腰かけた。ローファーをぶらぶら揺らしながら、缶ジュースで乾杯。孤独な自動販売機、と揶揄したあの機械によって冷やされた炭酸飲料はとびきり甘くて美味しかった。となりに座る彼女も幸せそうに甘いミルクティーを飲んでいる。
月が沈んでいく。
東から、新しい朝日が昇ってくる。
私たちはなにも言わずにその景色を眺めていた。
私たちは、幼い子どもじゃない。
旅の終わり。
月のない空にまばゆい太陽が昇っていくのは、私たちの短い逃避行の終わりの合図。
現実を知っている私たちが、それぞれの居場所に帰る時間。
缶の中身がなくなるあと少しだけ。
朝日に焦がされながら、私たちは指を絡めて囁きあった。
「「 」」
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