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「今日も沢山話したね。でも、この画面通話も何十、何百と繰り返すと緊張しなくなるもんだね……。じゃあ、おやすみ。今日も話せてよかったよ。またね」
「うん、またな。お互い身体に気をつけながら仕事頑張っていこう」
「またね、か……。もう忘れちゃったよ。あなたの温もりも感触も。覚えてるのかは顔と声だけ。こんなモニター越しの会話、恋愛ごっこだよ。ゲームと変わらない。こんな関係、いつまで続けるつもりなんだろ」
「また言えなかったなぁ。いつになったら、コロナ禍が終わるんだろ……。もう、愛してるって言葉も口から出てくれない。1年ぐらい会えてないと、愛してるって言葉は嘘をつくのと同じぐらい辛い言葉になるんだな……。明日も、仕事か……」
「わかってると思うけど、私達は人の命を救う側の人間です。日頃から軽はずみな行動はくれぐれも謹んで、プライベートでコロナ感染なんて起こさないように。会食なんかして感染したら、私達は患者さんに顔向けできない。辛いとは思うけど、それが私達看護師の仕事よ。いい?
はい、じゃあ今日も頑張って行きましょう!」
「おはようございます。哲学の講義の時間ですね。
オンライン授業ではなく、今日こうして皆と顔を合わせる事が出来る事、嬉しく思います。それでは、出席をとります。……え?あ、服が乱れてる!? 参ったな。分散登校になったから動揺してるのかも。正直、久しぶりに視線を集めて緊張してるんだ。はいはい、笑うのはいいけどソーシャルディスタンスとマスクはしっかりするんだよ。飛沫が飛ぶからね。
はい、みんな教科書開いて。今日はジョン・ロックの認識論について学んでいきましょう」
「一体、いつまで続くんだろう。こんな家と病院を行き来するだけの生活が」
「一体、いつになったら元通りになるんだろう。社会的動物である人間が、まともに交流できた時代に」
「私は、先が見えない。喜びって何だっけ。最後に本気で大声出して笑ったのって、いつだったっけ」
「俺は、今がわからない。自分が無味乾燥な人間になっていくのを感じる」
「私は病院で命を守る仕事に奉仕している。それに誇りすら持っていた。でも、命を守るだけで良いのかな。感染対策を徹底すればする程、人は1人の方が安全という結論になる。でも、結果として命は救えても……心は? 心に寄り添いたいのに、接触時間が少ないのは致命的。職員だって限界を感じている。今にも壊れそう。管理者の私だって、壊れそう…」
「哲学は世界の根源や本質を見極める為の知的探究を方法的に進める学問だ。私は大学講師として学生達に偉そうに世界とは何か講釈を垂れている。他ならぬ私自身が人生に彷徨っているというのに。せめて私出来ることはそう。哲学者プラトンの言っていた『親切にしなさい。あなたが会う人はみんな、厳しい戦いをしているのだから』という言葉に従うのみだ。人の言葉にただ従う哲学者とは、滑稽だな……」
「お疲れ様。今日はどうだった?」
「お疲れ。俺の方は対面授業が再開されたよ。緊急事態宣言も解除されたし、学生達も久々に顔を合わせる友達と話せて楽しそうだった。そっちは?」
「こっちはいつもと同じ。カーテンで仕切られた病室、マスクにゴーグル、更に距離を空けて人と話す異様な病棟だった。すごく息苦しくて、退屈。ねぇ、この生活って何なんだろね……。人と人との接触を減らすって感染予防では大切だけど、精神面には確実に悪いよ」
「……そうだな。俺も息苦しいよ。こうして交流はできるが、顔を合わせた直接的交流とは言えない無機質な交流、それが積み重なる生活だ。スイスの哲学者は『生活とは、つまり習慣の織物』だと言った。この生活習慣を長く続けた先には、どんな歪な色柄をした自分が織られているんだろう。常に疑問を感じるよ」
「私、最後にあなたに会った時の事をもう忘れそうだよ……。頭が回らない、重いの……」
「そうか……。2人で過ごした日々は、少しでも思い出せる?」
「うん。初めて2人で行ったcaféで笑いながら話した。あなたは時々難しい事を言うけど、心底楽しそうに笑ってくれた」
「ああ。君はわかりやすく小首を傾げてたけど、でもその後もっとわかりやすく教えて!って快活な姿がすごく眩しかった。まるで小動物みたいに可愛かったよ」
「小動物は酷くない? でも、そうだね、楽しかった。看護師じゃなくて1人の人間になれたから。次は誰かさんが奮発してディナーに誘ってくれたんだったね。夜景の見えるレストランでムードを作って。でも食べ終わった後、綺麗な景色を探すのに1時間ぐらい歩いたっけ」
「慣れてなかったんだよ、地図は見ておいたんだけど……緊張して吹っ飛んだんだ」
「やっとここだ!って場所を見つけて突然振り返ったと思ったら、いきなり声裏返して『好きです! 結婚を前提にお付き合いして下さい!』って。思わず笑っちゃったよ」
「あれは酷かった。心臓が張り裂けそうになってたのを未だに覚えてる」
「もう少しスムーズな告白の仕方を、哲学は教えてくれなかったの?」
「知識は哲学で学べても、実践は話が別だよ。でも、知識も何も吹っ飛んだのはその後だ。君が手なんか握って歩くから」
「だって、嬉しかったし。付き合ってるなら普通でしょ?」
「まぁ、そりゃそうかもだけど……。凄く嬉しくて、でも初めてづくめの賭けに成功したばっかで好きな人と手を繋ぐなんて。キャパオーバーだった」
「そうだね。手汗、すごかったもん」
「忘れてください、お願いします」
「……本当に、忘れていいの?」
「……いや、失言だった。その恥ずかしい過去も含めて、今は大切にしたい。画面越しだと、新たに君の手の温もりを感じられないからね」
「そうだね……。結局、隣同士とは言え県外に住む2人だもんね。県を跨ぐ移動を制限されてる中じゃ、恥ずかしい思い出の上書きも、楽しい思い出を新しく作ることもできないもんね」
「……そう、だな」
「私、こんな生活にちょっと疲れちゃった。さっきのスイスの哲学者の言葉だっけ? もうこの画面越しの会い方が1年間。このまま2人が無理矢理繋ぎ止められた生活を編んでも、凄く辛い織物が完成しそうだよね」
「……そう、なのかもしれないね」
「ねぇ……1つお願いがあるんだけど、いい?」
「……何?」
「距離をおこうよ。毎日してる画面通話もやめて、『結婚を前提に』って言葉を受けたのも、もう一回考え直させて欲しい」
「そうか……。そう、か……。1年間も、辛い思いをさせてしまったな。ごめん」
「ううん、別にあなたの事を嫌いになった訳じゃない。ただ、ほんの少し距離が離れてるだけ。県を跨ぐ移動が許されて…看護師である私も誰かに会うのが許されたら、また会おう? そしたら、今のモヤモヤもどうなるかわからないし。その時改めて、今後の事を話そうよ」
「わかった……。本当、たった1つ県が離れてるだけなのにな。不要不急の外出を控えろって、なんなんだろうな。どこまでが不要不急なのか…」
「わかんないけど、最低限の生活に必要ないものは不要不急って事なんじゃない?」
「そっか……。君は俺の事を博識だとか、頭がいいとかいつも尊敬してくれてたね。でも、俺からすると君の方がずっと凄いよ。こうして、距離をおこうって行動を起こせるんだから」
「単細胞みたいに言うな。単に感情で動いてるだけだよ。別に尊敬される程のものでもないんじゃないかな」
「自分にできない事をできる人を尊敬しないのは傲慢だよ。……いつまでも未練がましく繋ぎ止めるのも良くないね。じゃ、バイバイ」
「……うん。バイバイ」
「ふぅ……。言っちゃった。バイバイ、か……。またねじゃなくて、バイバイか……。何なんだろね、自分で、自分から距離おこうって言ったのに…! なんだか、これで本当に良かったのかって、涙が出てくるのはなんでなんだろうね…! 得意の哲学で教えてよ……!」
「距離をおこう、か。ずっと、ずっと負担をかけさせてたんだな。ごめん、ごめんな……!本当、どうしたらいいのかもわからない男でごめん…!全部新型ウイルスのせいだって、俺には八つ当たりできない……っ。きっと、君を辛くさせない方法はあったはずなのに……至らない男で、本当にごめん…!」
「今日も一日、感染対策に気を配って下さい。その中で、患者さんの生活をより良く彩る術も探してください。生活とは、つまり習慣の織物なんです。私達が、こうして仕事だと対策を徹底して過ごす1日が、距離を取る1日の習慣が…、患者さんにとって不幸な色柄の生活にならないよう、各自、考えて下さい…! 大丈夫、私は大丈夫だから!……朝からごめんね、みんな、気にせず仕事に移って……っ」
「今日の講義を始めます。以前の続きーー認識論をやる前に、少しだけ違う話をさせて下さい。皆さんは、愛についてどう考えていますか? 愛とは、2800年前の古代ギリシャ人も探究してきた観念です。彼らは早い段階から愛には形があるのを理解していました。それは大きく3つです。恋愛初期で強く感じるエロス。そして感情はやがてフィリアに移行する。これは友愛も含みます。そしてアガペー。慈愛という意味で、悪い行いや失敗をした人に抱く状に使われる事もあります。いわゆる、キリスト教で言うところの無償の愛です。このように、人々は気付かぬうちに……愛を感じ、それを言葉にしています。では、これら3つの愛を言葉に出来なくなった時……人の関係は……どうなってしまうのでしょうか? 誰か、わかる人はいますか? もしいたら、誰でもいいです。私に、教えてください……! どうか、どうかお願いします……っ。……すいません、話が逸れすぎましたね。では講義に戻ります」
「緊急事態宣言は解除されても、また次の感染流行がいつ起こるかわかりません。当然、私達も気を引き締めて下さい。会食や県外への移動が病院から許可された時にはすぐにお伝えします。……みんなもストレスが溜まっているとは思いますが、病院に職員向けで無料のカウンセリングを導入する事が決まりました。こういった配慮も病院側はしてくれています。どうか早まった行動はせず、感染対策をしながらストレスを緩和して下さい。連絡は以上です。では、今日もよろしくお願いします。
……あれから1ヶ月が経った。張り詰めた職場に出勤し、家に帰れば誰と会話するでもなく家事をこなして眠る。休日も生活必需品を買う程度の外出だけ。……たった1つ、変人な彼氏と画面越しの通話が無くなっただけなのに、また生活は大きく色を変えたように思う。この日常が織りなす生活が鮮やかだとはーーとても思えない。でも、仕方ない。私は医療従事者だから。仕方がないんだ……」
「では、今日の講義はジョン・ロックの認識論に少し影響を受けたジョージ・バークリーです。彼の主な概念は主観的観念論です。彼の原則は「存在する事は知覚されることである」という事です。対象が知覚されずに存在する事はあり得ないという事ですね。そして、精神が唯一の実体であり、知覚するのは自分の精神である。その上で誰も知覚していない対象は神の精神の上に知覚されると述べています。わかりにくいですよね。ーーちょうど、私の前に机があります。このように叩くと音もします。皆さんはここに机があると存在を認識しました。これで、この机は皆さんの精神にも存在が認識された事になります。しかし、困った事にバークリー自身も矛盾を認めていますがーーその精神はどう観測し、どう知覚するのでしょうか? これは現在も解決されていない矛盾です。例えば、みんなの前にいる私は実はーーカツラです。本当はてっぺんからハゲてきています。はい、これで皆さんは私の髪はカツラだという情報を知覚しました。しかし、本当にそうだと信じている人がどれだけいるでしょう。それは本人にしか知りえません。これは対人関係にも繋がりますね。この人は自分の事を恋人だと言った。だから自分を好きだという精神がある筈だ。しかし、それは精神の想像でしかない。つまり、人の精神という曖昧なものがーー……っ!」
「講義をしていて、頭に電流が流れるように感じた。退屈な講義を受講していた何人かの生徒が訝しんで見ている所で終業のチャイムが鳴り、俺は飛び出すように教室から出た。
そう、俺はーー俺の精神は実に1年もの間、観測していなかったのだ。よくテレビを見ていた人が、有名人と会って実在するんだと口にする事がある。結局は、それと一緒だったんだ。俺は、画面越しに彼女の顔と声を聴いていた。だが、それは実際に彼女と会った時に知覚される精神とは異なる。俺は、間違いなく彼女が好きだった。愛していた。だからこそ、些細な違いに違和感を感じて心の靄は強まっていった。だったら、俺は絶対に確かめなければいけないーー」
「はい、今日もみんなお疲れ様。残業しなきゃって気持ちもわかるけど、集団が集う場はクラスターが起きやすいです。病院でクラスターが発生すれば、すぐにニュースで責められる時代です。くれぐれも早くーー……え? あ、いえごめんごめん。スマホの着信相手がね。驚く相手だったから。……いやいや、別に病院長とかじゃないの!気にしないで!じゃ、解散…!!
……(声を潜めて)ちょっと、何の用? 1ヶ月ぶりに突然……私、まだ職場なんだけど」
「突然で本当に申し訳ない。ーーどうか、今夜指定する場所に来てくれないか?」
「……は? だから、会えないって! 私達が会うにはどちらかが県を跨がなきゃいけないでしょ。そんな事できる訳ないって前にも説明したじゃん!」
「わかっている。君も俺も県外へ行く事はない。誰にも会ったことはバレないし、君は何一つルール違反もしない方法だ。だから今夜、俺と会って欲しい。タクシーを今夜、君の家の前に呼んである。既に行き先も伝えてあるし、アプリで支払いも済ませてある。来てくれると、信じている」
「ちょっと!電話、切れたし。なんなのあいつ……。もう、本当どうしようかな……。1ヶ月ぶりに声聴いたと思ったら……もう、本当に仕方ない人だなぁ」
「そろそろ時間……。うわっ本当に家の前にタクシー来てるし……。もう!仕方ないなぁ!」
「ーーふう。なんか、凄い田舎に着いたけど、あいつきてないし……。街灯もないし怖い……。全く、なんの嫌がらせーー」
「ーーいや、ここにいるよ。誰にも見つからないように隠れていた。こんな深夜に呼び出してすまなかった」
「ビックリした。普通、木の影から出てくる? 軽いホラーだよ。こんな深夜にタクシーまで手配して呼び出すなんて、なんのつもり? 私、距離置きたいって言ったよね。誰かと会ってるなんて知られたら、私PCR検査を受けた上で2週間の出勤停止処分になるんだけど」
「2人とも県を跨いでもいない。濃厚接触者に認定される15分も時間を取るつもりもない。せいぜい、スーパーの店員と客の距離感だ。違反は何一つしていない」
「人に見られたら、そんな言い訳通用しないよ。それが世間ってものでしょ」
「だからこの時間、この人気がない場所を選んだ。哲学者ジョージ・バークリーからの質問だ。「もし今、私たちの知らない遠く離れた地の誰も居ない森で、一本の木が倒れたとする。 その際に、その木は“音を出して”倒れたのか?」君はどう思う?」
「はあ?こんな時間に呼び出して突然何を言ってーー」
「真剣なんだ。頼む、答えて欲しい」
「……はぁ。一木が倒れたんでしょ?なら、普通に考えて音がするのは当たり前じゃない」
「いや、それは当たり前じゃない。なぜなら、その木は倒れた瞬間を誰にも見られていないから。だから、音を立てたのかなんて誰にもわからないんだ」
「何言ってんの?喧嘩売ってる?」
「これはバークリー主義の答えだが、存在は認知があって初めて成り立つ。誰もいない森では、倒れた事を誰も認知できない。だから誰も認知出来ないなら、木は音を立てていない事にもできるんだ。だからーー」
「それを屁理屈って言うんだよ。何?私を怒らせる為に呼び出したの?」
「違う。これは、そうやって自分を許す言い訳でも作らないと会ってもらえないと思ったからだ。だから強引な屁理屈を持ち出した。今、ここで俺たちが会っていると認知している者は誰もいない。だから、世間には俺たち2人が密会しているかなんて誰もわからないんだ」
「アホくさい屁理屈。もし感染しちゃったら、バレるじゃん」
「対策は完全にしている。直前にPCR検査もしたが、俺は陰性だった」
「アホだアホだと思ってたけど、行動力もついたんだね。告白する場所を1時間も探してた人が変わったもんだよね」
「なんて言われてもいい。アメリカ大陸だって、発見されるまでは存在しないものと思われていた。それと同じなんだ。自分でも、屁理屈だってのは分かってる。でも、それが哲学なんだ」
「哲学への冒涜だよ、そんなの」
「哲学は英語でフィロソフィー。ギリシャ語で知を愛するって意味だ。悪知恵だろうとなんだろうと、愛を確かめる方法に使ってもいいだろう。ーーだって、今日俺は1年ぶりに画面なんか通していない本物の君と直接会話して、改めて君の事を愛していると心が認識してしまった」
「馬鹿、貴方は頭がいいけど、本当に馬鹿、馬鹿だよ…! 大体、まだ私があんたの事を好きだと思ってんの!? 理屈屋で、真面目なだけしか取り柄のないあんたみたいな男の事を……!」
「それは、すまん……。でも、少なくとも俺は君の事が好きだ!……迷惑だったか? 理屈屋で面白味もない俺に愛してるとか言われて、嫌な気持ちにさせちゃったか?」
「意地悪な事、聞かないで! 迷惑だったり、嫌な気持ちになってるなら、こんな感情にならない!
私だって、直接あなたの顔を見たらもう我慢できないよ!……ずっと、好きだったんだもん。会えない期間でよく分からなくなってたけど、直接会ってそんなこと言われたらもう、無理! やっぱ好きだなぁってなっちゃうよ!」
「そうだな、いまの君の顔は1年前と何も変わらない。素敵な心からの笑顔をしている。その顔も愛している」
「誰がそうさせたの、馬鹿!もう…ほんっとにあなたは……馬鹿だなぁ!あははっ!もう馬鹿!……あーもう、こんなに笑ったのコロナ禍になって初めてだよ!……なんか悩んでるのがアホくさくなっちゃった。明日からどう日常に戻れっていうのよ、もう」
「……責任を取らせて欲しい。『結婚を前提に』という言葉は、俺から撤回させてもらう」
「……え?」
「俺とーーすぐに結婚して下さい。同居家族なら、毎日接触しても世間に責められる謂れもない」
「は?え?突然何言ってんの?」
「今は指輪を買いに外出すらできない。用意できたのは、こんなものだけだ。ムードもかけらもない贈り物ですまない。だが、これが俺なんだ」
「それ、婚姻届……?」
「ああ、2人で県境に立ってこれを渡すだけなら、県を跨ぐ移動をしたのは婚姻届という物だけだ。君は病院の指示に何一つ違反していない。どうか、受け取ってくれないか?」
「は?…確かに、そりゃそうだけど……。そんな屁理屈ある?」
「屁理屈でも、哲学でもなんでも使う。強引に押し通す。2人でいられる未来のためなら、どんな馬鹿だと思われても構わない」
「もう……仕方ないなぁ。強引になったもんだね。……ほら、これでいいでしょ」
「受け入れて、くれるのか?」
「こんな面白味もなくて、色々と拗らせちゃった天然記念物ものの馬鹿男、私が見捨てたら誰も拾ってくれないでしょ。仕方ないから、一緒に住んで保護してあげる」
「ありがとう……!ありがとう……!」
「……今はこれで我慢してあげるけど、同居したらちゃんと態度で愛を示してよね。本当、ムードもかけらもないんだから」
「そこら辺は、昔から成長しないな……。これから頑張って勉強するよ」
「いいよ、そこは諦めてるし。……それに、コロナ禍でも変わらない存在があるって、ちょっとだけ安心した」
「そうか……。良かった」
「幸せに、なろうね」
「ああ、必ず。これからの1日1日が織りなす習慣を、素敵な生活に染めてみせる」
「……っ…なら…。こんな灰色の生活から、脱出させてくれるなら……っ。こんな順番も婚約指輪もすっ飛ばした無茶苦茶な事も、許してやる!」
「やっぱ泣いて……いや、すまない。そろそろ15分近く経ってしまう。今日はもう、帰ろう。俺はまた隠れているからーーまたね」
「もう、どこまで融通が効かないんだか。もう少しの距離、もう少しの我慢、か……。うん、バイバイじゃないか。ーーまたね。また、新居で……!」
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