君のいる世界

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「ルルね、死んじゃった。」 母の声が微かに震えていた。「いつ?」真衣はできる限り声に動揺が映らないよう、短く、はっきりと息を吐いた。「今朝、もうさ、起きてきたらね。」母は言葉を切ると、鼻を啜ったようだった。「今からね、葬儀の人来てくれるみたい、ね!長生きだっからね、ま、今日も頑張ってね。」振り切ったように明るく話す母の声が不愉快だ。真衣は喉で唾を抑え、「うん、またね。」と言って電話を切った。 ルルは真衣が十三歳の頃にきた犬だった。今、真衣は三十になったため、十七年の命だったということが分かる。 「長生きかぁ。」スマートフォンを握りしめたまま、呆然とその場に立っていたが、突然堪えきれない涙が溢れ、しまいには嗚咽を漏らして泣いた。今日に限って仕事は休み、予定もない。十分以上、そのままの泣き尽くしていた気がする。真衣は傍にある椅子に体重を預けると、意味もなくスマートフォンを開く。この悲しみを、どこかにぶつけたい。メッセージやブログを開いたり閉じたりしているうちに、身体がひんやりと悲しくなった。 犬が寿命を真っ当して、死んだだけなのだ。 祖母でも親でも兄妹でもない。真衣にとってはとても重要で、胃が凍てつくように悲しくても、飼い犬の死を本気で一緒に悲しんでくれる人などいるのだろうか。「そうかぁ、でも長生きだったね」と言われて終わりだ。「お疲れ様」と言われるかもしれない。そう思うと、全身に冷たい針が刺さったような暗い気持ちになった。母の犬として飼われはじめたルル。だが、真衣によく懐いていた。夜眠る時も、散歩も、真衣とならば嬉しそうに寄ってきた。高校時代、家に帰るのが遅くなった真衣にも、ルルはしっぽを振って迎えてくれた。あの頃、私は充分にルルと遊んでやれていただろうか。社会人になると、仕事と人間関係でさらに忙しくなり、ルルと遊ぶことなどほとんどなかったように思う。 「あー。」思っていたより低い声がでた。何かひとりごとでも言わないと悲しみにのまれてしまいそうだ。気を散らしたい、悲しい。 左手で掴んでいたスマートフォンが鳴いた。画面には「あーた」と指示があり、ハートまでついている。恋人の新だ。いつもなら何よりも先に飛びつくはずだが、真衣はそのままスマートフォンを鞄にしまった。 三年前、新に出会った。他の部署から異動してきた新はすらりと身長があり、おまけに顔も声もよかった。賭け事と酒の噂は聞いていたが、ひとつも気にならなかった。それはもちろん周りの女子社員も同じで、すぐさま戦争になった。弁当をつくってくる女、飲みに誘う女、ストレートに身体で誘う女。とにかく皆が必至の中、新が選んだのは真衣だった。最初こそ大喜びであったが、付き合っていくと新という男はとんでもない男だとわかった。デートはパチンコかホテル。借金もあり、おまけにマザコン。ただひとつ、浮気だけはしなかった。 何度も泣いて、別れようとも思ったが、皆の憧れの男を捕まえたという、なんの意味もない勝利感を、真衣は手放すことができず、ただ新と言う男に溺れていった。一年も立たずに同棲し、今に至るが、新は昨日もパチンコからの実家泊まりで、帰っては来ていない。 でも、今日に限ってはそれでよかった。 今は新の顔を、見たくはない。 鞄を持つと、マフラーを巻く。外に出ると、雪が見えた、積もるかもしれない。そのまま適当に歩き出すと、また涙が出てきた。雪遊び、一緒にしたのはいつだろう、散歩は?ボール遊びは?最後に名前を呼んだのは、いつだろう、頭を撫でてやったのは…考えても仕方の無い後悔が真衣の心に積もっていく。恋も友情も仕事も旅行も、後回しにして、沢山頭を撫でてやればよかったと。 親から引き離され、人間に売られ、飼われ、飼い主の事情に付き合って生きたルルの一生は、幸せだったのだろうか。いや、きっと何も望んでないだろう、充分だったと言ってくれる。私はこんなにも、欲に溺れて生きているのに… 踏み切りを渡ると、小さな公園の横にでる。子供達とその母親が、白い息を吐きながら遊んでいた。小学校に上がったばかりであろう子供達が、元気に追いかけっこをしている。真衣はつられるように公園に足を踏み入れる。葉が落ちた静かな木や、雑草、寒さの中時々見える小さな虫をみていると、不思議な気持ちになった。 「あ!」 突然、叫ぶような恐怖を煽る声がして、無意識に目で追った。赤子を抱き抱えた女性が必至の形相で、遠くへ手を伸ばしている。真衣はその手の先を目で追う。遅い、何もかもがゆっくりと見えた。二歳ほどの少年が、道路に向かって掛けようとしている。大きなトラックが恐ろしい程に強くクラクションを鳴らした。道路にほとんど身体を進めてしまった少年が、音に驚き固まった。死んでしまう、真衣は、高校以来、全力疾走などした事がなかった。走り方など忘れてしまった、欲にまみれた大人なのだ。 それでも、不格好に、我武者羅に、真衣は走り出した。冬の寒さのせいか、つま先がびりびりと痛む、頬が痛い、目が開かない、上半身だけ先に先にと前のめりになる。転びそうだ。 死んでしまった、ルルは、もういない。 冷たい指先が少年の上着を掴んで、そのまま後ろに二人で倒れた。すぐ目の前をトラックが通り、少し先で止まった。トラックの風が鼻を掠めるほど、死はすぐ側にあった。運転手が駆け寄ってきた母親に何か言うと、頭を下げた。母親も何度も頭を下げ、真衣に何か声をかけていた。真衣は、少年と、地面にひっくり返ったまま、泣いていた。少しすると、火がついたように少年が泣き出し、我に返る。謝り倒す運転手と母親に、頭を下げると、そそくさと歩き出した。先ほどから涙が止まらない。 死は、すぐそばに居た。鼻を掠めるほどに。 ルルは、すぐそばにいる。 木や、風や、虫や、子供達や、私の中に。両手で目をこすり、しゃくりあげた。どこからか、焼き芋の匂いがする。ルルの大好きな焼き芋。ひとつ買って帰ろうか。 そして、あんな男、別れてやろう。 週末は実家に帰って、家族とルルの話をしよう。 真衣は少しだけ温まった心で、柔らかく笑った。
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