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次の日。絃は、荷物をまとめていた。
この家を出るために。
(必要とされない、愛されない。ならば、私がこの家にいる価値などないのだから。それに、何よりもさゆりをこれ以上悲しませたくない。)
絃が傷つく姿をみて、顔を歪め、涙を流し、使用人の立場故に何も出来ないことに苦しみ、葛藤するさゆりを、救いたかった。
別れるのは、寂しいけれど。
手紙を、そっとさゆりの部屋の机に置き、すこやかな寝息をたてているさゆりを見た。
「今までありがとう、さゆり。あなたに出会えて、私は幸せでした。」
小さく呟くと、部屋を出る。
絃は深呼吸すると、玄関への廊下をいそいそと歩いた。
あともう少しで玄関、というところで。
「何をしているの!?」
と声が聞こえた。
絃に心ない言葉を浴びせる声。
絃が、最も嫌いな声。
─────母のものだった。
ゆっくりと振り返ると、鬼の形相でこちらに向かってくる母の姿があった。
絃は早足で玄関へと急ぐ。
「絃!」
名前を呼ばれたのは、いつぶりだろうか。
玄関の扉を開けようとした絃の手がとまる。
「勝手にどこへ行くの。」
母の問いかけに、絃は重たい口をゆっくりと開いた。
「ここではない、どこかです。」
「そんなことが、許されるわけないでしょう!?」
母が怒鳴りつける。また右手が振り上げられた。
が、もう絃は目を瞑らなかった。
パシン、と絃の手が、振り下ろされた母の手を掴んでいた。
「どうして。」
自分でも驚くほど、冷淡で低い声だった。
「いつもは私のことをないものとして扱うのに。だったら、私が出ていっても関係ないはずでしょう。」
それは、絃の初めての反抗だった。
母の顔がみるみる赤く染まっていく。
「この子は、大切に育ててもらった親に何てことを!?」
「大切に?笑わせないで。私はあなたに優しくしてもらった覚えなどありません。このようなところはもう嫌です。」
掴んでいた母の手を離し、一気に扉を開けた。
そして、走り出す。
夢中で走っていると、これまでの厳しい暮らしの記憶が、少しずつ薄れていく気がした。
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