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「え、と、大丈夫ですけど……?」
「そんな風にはとても……その、……近いんじゃないか?」
「近い? なにがですか? あ、距離感ですかね?」
俺が彼から一歩離れて大理石の壁に背をつけると、彼はタートルネックと首の境を指先でなぞる。困っているのが見てとれる仕草だ。
「……きみ、おじさんをからかうの楽しいかな? 私は、きみを心配して言っているんだぞ」
「からかう? そんなつもりは全然ないです。なんの話ですか?」
「なんのって……だから……やっぱり、私をからかっているだろ?」
彼はじろりと俺をにらむ。でも全く意味がわからなくて首をかしげると、彼は二歩進んで俺の前に立った。彼は口髭を親指で擦ると、覚悟を決めたように俺の頭の横に肘をおいた。突然の壁ドン、とても良い匂いに囲まれてしまった。
だから「やっぱすごい、いい匂いですね」とふざけたのに、彼に厳しい視線で見下ろされ、「へ?」と、とまどう。
「からかうつもりならはっきり聞くぞ。薬はいつ飲んだんだ? とても効いているようには思えない」
「薬? なんの? なんも飲んでないですけど……」
「……ハァ?」
いきなりの低い声でそんなことを言われ、勝手に体がこわばる。恐る恐る見上げると、彼はそれまでの穏和な笑顔を忘れたように無表情で俺を見ている。ぞ、と寒気が走る。
『このでき損ないの恩知らず。おまえのような子どもならいらなかった!』
父親の言葉を、その恐怖が甦る。
――怖い。
勝手に目に涙がたまる。
「泣かせたいわけじゃない……」
彼は深く、深く息を吐いた。
「きみ、……何歳だ?」
「十八、……あ、今日で十九になりました……」
「これまでヒートの経験は何回ある?」
「ヒート……?」
彼はじっと俺の目を見ている。怒っているように見える。なのに、その薄い茶色の瞳から目が逸らせなくなってしまった。
怖いのに、でも逸らせない。
吸い込まれるようにその目を見てしまう。頭の中に靄がかかったみたい。その目、彼の目、甘い匂い。
「Ωのヒートを甘く見てはいけない。きみは、このままだと加害者にも被害者にもなる。今までなかったからと言って、対策を怠るのは傲慢なんだよ。わかるかな……」
彼の声が靄の向こうから聞こえる。彼の匂いに包まれて、その匂いがもっとほしくて、その目をもっと見たくて、その目にもっと見られたくて、なんだかわからない。なんでこんなことを思うのかもわからない。「聞きなさい、大事なことなんだ」と言われ、目から勝手に涙が落ちる。「泣いててもどうにもならないよ」と怒られて、体が震える。
「わかんない、……だって、不明、だから……」
「不明? なにが?」
「ン、第二、性診断、結果、……ハァ、もう、ずっと、不明……だから、わかん、ない……俺、なんも、わかんな、い……俺が、なんなのか、……怒んないで、……大人、の男に、怒られるの、怖い……」
息がしにくい。
熱を出したみたいに体が熱くて、立っているのも辛くなる。膝が崩れそうになったとき、彼が俺の腕をつかんでささえてくれていた。
見上げると、彼が微笑んでいた。
「なるほど、それは不運だったね」
もう怒ってない、そう思ってホッとする。そしてホッと吐き出した息を吸った瞬間に、足の指から全身を通って頭のてっぺんになにかが突き抜けた。まるで雷に打たれたみたいな衝撃。――たまらない、この匂い――頭の中が真っ白になり、体が勝手に彼にしがみついてしまった。
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