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第二話 踏み外した階段
泥の中から浮上するように、身体中に熱さが抜け、意識が戻ってくる。夢と現実の境目だ。俺はぼんやりと目を開ける。ぼやけた視界の中、目の前にあったものを見る。
それは大きな猫だった。
長毛のその猫は俺が目を開けたのに気がつくと、ふみ、と俺の顔をふみ、俺の耳をペロリとなめた。ざりっとした痛みに意識が一気に覚醒する。
「いててっ……いたいって……」
顔の上に乗ろうとした猫を下ろし、上体を起こす。俺はキングサイズのベッドで一人寝ていたようだった。ベッドと書き物机がおかれた部屋は、恐らく寝室だ。シックな色味で整えられており、物が少なく、落ち着いた人が住んでいそうな部屋。
……こんなモデルルームのような部屋に覚えはない。
「どこ?」
「みゃん」
俺の疑問に答えるように膝の上で猫が鳴いた。猫は俺の指をペロペロなめる。見た目はかわいいがざらざらして痛かった。
が、かわいいので許してしまう。
俺は猫に指をなめられながら、ぼんやりと部屋を眺めていると、カチ、と小さな音を立ててドアが開いた。
「起きられたか、よかった」
そう言って入ってきたのは、口髭丸眼鏡のハンサム、――つまりデパートで会ったおじさんだった。
彼の姿は柔らかそうな生地のセータにチェックのツイードのパンツ。俺の部屋着とは大違いだが、スーツよりは遥かに楽そうな格好をした彼はベッドに腰かけると、俺の膝の上の猫の耳を撫でる。
「おはよう、クロエ」
「クロエ? この子の名前ですか?」
「あぁ、かわいいだろう。私のクロエだ」
彼の手に応えるように「みゃん」と猫が鳴く。高くて甘いその声に顔が緩んでしまう。
「うん、かわいいー……」
「猫好きかい?」
「すごい好きで……将来奨学金返して、三百万猫貯金がたまったら飼いたいと思っていて……」
「立派な将来設計だな。さて、と……」
彼は猫を撫でるのをやめると、今度は俺の頬に触れた。
「聞きたいことも言いたいこともたくさんある。『コウタ』くん、着替えを渡すから服を着てリビングに着てくれるかな?」
「え、……え!?」
俺はそこで自分が初めて裸であることに気がつき、「なんでっ!」と叫んで布団にもぐる。布団の中で確認すると、下も裸だった。いや、それだけじゃない。全身の肌がつるつるしていて、しっとりしている。そしてなんとなく、下腹部があったかいというか、お尻の方に違和感が……。
「な、ななな、な!? なにこれ!? なんですか、これ!」
布団から頭だけだしてそう聞けば、彼は「今度こそ終わったんだな」と微笑んだ。
「お、終わったって、……?」
「ヒートだよ。少しも記憶、残ってないかな? そんなものか……残念、寂しいな」
「ヒート? え、ヒートって、……ヒートってなんの話ですか!?」
彼はクローゼットから薄手の長いシャツと柔らかそうなカーディガンとスウェット生地のパンツ、それからコンビニで買ってきたであろう新品の下着を取りだし、ベッドの上においた。
「着替えておいで。三日もまともに食べてないからお腹も空いてるだろ?」
「お腹、……は確かに空いてますけど、三日……?」
「それも含めて説明するから、……わかったね?」
彼は穏やかに微笑むと、ベッドに乗る。キ、とベッドが軽く音を立てた。彼は布団ごとを俺を軽く抱き締め、俺の額にキスをする。一連の動きが流れるようで抵抗するタイミングがわからなかった。
「返事をしなさい」
その言葉を聞いた途端「はいっ」と喉が勝手に返事をした。彼は満足そうに微笑むと「いい子だね」と俺を褒めて「じゃあ着替えたらね」と言い残しクロエを抱いて部屋から去った。
「てか、なんで名前知られてんの……あの人、誰……」
一人残された俺はしばらく呆けるしかできなかった。
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