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二章 花の宵夢 其の一
静子姫は冷淡な態度でいたが、桜はもっと、ひどい目にあわされると思っていたので、少し、拍子抜けしていた。
そして、静子姫は話が一通り、終わると、興味をなくしたらしく、桜の居室を去っていった。
慌てて、笹乃が後を追う。
それと同時に、お岩が泣きそうな顔で桜に駆け寄ってきた。 「桜様、危ない目にあわれなくて、ようございました。わたし、密かに手を挙げられやしないかと心配で」
「…大丈夫よ。静子様は誇り高い方だから。そんな卑怯なことはなさらないわ」
つい、名前を言ってしまったが。
お岩はしわができた手で桜の手を取って、そっと、撫でた。 「三条のお方様が誇り高い方だと。一回、お会いしただけで、わかるものなのでございますか?」
「目を見たら、何となく、わかったわ。私にすごく、嫉妬をなさっていたみたいで。けど、悲しそうにもなさっていたように思うの。既に、姫もおられるとは聞いていたし」
「さようでございますか。桜様は時々、鋭くておられますからな。わたしも驚かされっぱなしですね」
お岩はなるほどと言いながら、握っていた手を離した。
そして、夕餉を取ってきますといって、居室を出ていった。それを見送りながら、大きく、ため息をついた。
あれから、さらに五日が過ぎた。
桜は武田の屋敷にも慣れてきて、女人としてのたしなみとして、琴や生け花、書の稽古をさせてもらっていた。
それとお裁縫や礼儀作法もお岩や武田家の侍女に習っている。
武芸も身に付けた方がよいかと思って、長刀を密かに習ったりもしていた。
だが、まだ、始めたばかりなので、付け焼き刃であったが。桜は一所懸命に晴信にふさわしくなるようにと、花嫁修業に励んだのであった。
気がついたら、婚儀の日になっていた。お岩から、手順は教えられていたので、桜は装束を着付けられながら、頭の中で整理をしていた。
「…おきれいですよ、姫様。お披露目と杯を受けるのが終わったら、初夜でございます。このたびは、おめでとうございます」
丁寧に武田家の侍女こと蕗乃が言祝ぎをしてきた。
桜はぼんやりとしながら、それに小さく肯いてみせる。
「ありがとう。私、誰からも祝福されていないと思っていたから。お祝いの言葉を言われると、うれしいわ」
笑いながら言うと、蕗乃は苦笑いした。 「そんなことはございませんよ。姫様はお稽古をがんばっていらしたではないですか。わたしどもはむしろ、うれしいのでございますよ」
そして、桜に広間へ案内いたしますと言って、立ち上がったのであった。
広間に行くと、既に大勢の人々が集まっていた。
「…なんと、お美しい方だ。諏訪の姫もかなりの美女だと聞いていたが」
「そうだ。はかなげな感じでいられる。若殿様が羨ましいのう」ため息をもらしながら、家臣達が口々に噂をしだす。
桜は居心地の悪さを覚えながら、花嫁のためにしつらえられた座に向かう。
そこには厳しい顔立ちの晴信が座していた。
そろりと隣に座ると、桜はおそるおそる、晴信の顔を横目で見やる。
前を見据えていて、その眼光は鋭い。
「…若殿様は姫君が気に入らないのでしょうかな。まあ、京の都から、三条のお方様を迎えられた御身だからな」
家臣の小声が耳に入る。
いたたまれなくなって、顔をうつむかせた。
その間も晴信は家臣達に静まるように、目配せをする。
桜は自分がまだ、若かりし頃に娶った少女に顔が似ていた。たった、十二歳で嫁いできたが、翌年、子を身ごもった。
だが、お産の時になり、相当な難産になった。
そして、少女は助からなかった。
十三歳で亡くなり、子も同じ時に息を引き取る。
それはあまりにも苦く、辛い体験であった。
桜が十六歳だと聞いた時は、少し、不安になったほどだった。
子を身ごもらなくていいとすら、思った。
あの時の体験がある以上、同じ目に遭わせたくない。
だが、静子姫や麻亜の方が子を生んでいる以上、桜一人だけを特別扱いするわけにもいかないだろう。
桜は三人目の妻になる。
自分に嫁いできた彼女に申し訳ないと思うのであった。
杯を受けて、婚儀は終わった。
後は寝所に向かうことになる。
「…桜殿、私はそなたに手を出す気はないが。それでも、義務として、一緒の部屋で朝方まではいてもらう。それでいいか?」
晴信は寝所にて、真っ先にそれを尋ねてきた。
戸惑ってしまい、桜はえ、と声をあげてしまう。
「それは私と、契りは交わさないということですか?」
「そういうことになるな。すまない」
晴信は深ヶと頭を下げてきた。
桜は驚いてしまい、あっけに取られるしかない。
「その代わりにわたしは桜殿を粗略にはしない。父君に文を出したりすることも許可しよう。この屋敷内であれば、自由にしてもらってかまわないから」
頭を上げた晴信は先に行って、寝具に入る。
桜も後に続いたのであった。
晴信は先に、寝具にくるまりながら、隣に入るように言ってきた。
桜はおそるおそる、寝具に入る。
晴信は緊張して、固まっている桜に笑ってみせた。
「別に、堅くなる必要はない。わたしは手を出すつもりはないから。そうだな、桜殿が十八になったら、契りを交わしてもらおうか」
「…あの、私は覚悟はしています。もし、周囲に知られてしまった、なんと、言われるかわかりませんし」
反論しようとする桜に、晴信は気にすることはないとやんわりと丸め込む。
「わたしは既に、二人の妻がいる。だが、昔、正妻として迎えた娘がいてね。その娘はわたしの子を身ごもったんだ。しかし、年が十三と若すぎて。お産はうまくいかずに、子もろとも、亡くなってしまった。その時のことは未だに、後悔している」
「…そんなことがあったのですね。だから、私に手をつけられないのですか?」
すると、晴信は苦いものを滲ませた表情になった。
「すまない、そうだ。桜殿は十六だと聞いた。同じ事が再び、起こっても、困るしな。体がちゃんと、子を生む準備ができるまでは待つつもりだ」
はっきりと言われて、桜は顔を赤らめた。
眠れぬ夜を過ごしそうだと思ったのであった。
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