其の四

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其の四

   自分に馬術の基本的な事を教えてくれた佐々木も戦っている。 彼も馬術だけでなく、剣術には長けているようだ。 晴信は桜にその場から、動かないように指示を出すと、走って、敵の中に入っていった。 「晴信様!」 とっさに叫んでも、晴信は振り返らなかった。 彼が改めて、猛者とも呼ばれる武将なのだと思い知らされたのだった。 刀がかち合う、がきんという音や怒号がとどろく中、桜は体を小さくして、待つことしかできなかった。 (晴信様や他の皆が無事でありますように。母上、どうか、お守りください) 祈ることで晴信や他の皆が助かるように、願った。 その時、桜に大声で近寄ってくる人影があった。 「佐野のご寮人!覚悟!」 それは女のものだった。 そちらに視線を向けたら、鈍く輝く小太刀が手に持たれている。 一直線に桜に向かってくる女が小太刀を振り上げた。 殺されると思って、瞼を閉じた。 だが、次にくる衝撃は一向にない。 体に何かが覆い被さってもいるので、目を開けると、白髪が見える。 それと茶色っぽい小袖。 桜は上に覆い被さっているのが自分に仕えてくれているお岩だと、わかった。 「岩、何で?」 お岩の背中には、小太刀が刺さっていて、黒い染みができている。 あまりの出来事に頭がついて行かなかった。 自分を庇ってくれたお岩は、どんどん、顔から、血の気が無くなっていった。 虫の息で、背中に刺さった小太刀は心の臓は外れていたが。それでも、命を奪うには十分なものだった。 「…岩!返事をして!」 泣きながら、お岩を揺さぶる。 気を失っている老婆の体は力なく、揺られるだけだった。 桜はどうしたらと、途方にくれる。 傷の手当ての仕方など、知らない。 辺りを見回していると、佐々木がこちらに走ってくるのが視界に入った。 すぐに、桜達の側にやってきて、声をかけてきた。 「…ご寮人!ご無事でしたか」 ほっと息をついたが、桜はそれどころではないらしかった。泣きながら、もう動かない侍女にとりすがっている。 「お岩!」 悲痛な叫びに佐々木は、何もできずに、立ち尽くすしかない。 だが、敵を追い払えたことは伝えておかなくては。 「ご寮人。もう、賊はいません。だから、今は落ち着かれた方がよいですよ」 優しく、桜に言い聞かせてみる。 桜はまだ、混乱しているらしく、泣きながら、お岩にしがみついていた。 仕方なく、佐々木はお岩の背中から、小太刀を引き抜いた。ゆっくりと抜けば、血がぽたぽたと落ちる。 すぐに、自分の着ていた上着を切り裂いて、お岩の体に巻き付けて、止血した。 きつく巻き付けて、血を止めようとしたが。 お岩の顔は青白く、傷の深さが見て取れた。 助かるだろうか。 佐々木は未だに、泣いている桜の肩に手を置いて、小さな声で言った。 「ご寮人。お岩殿は息をしていますから、大丈夫ですよ。傷をふさぐことさえできれば、助かります」 すると、桜はやっと、俯いていた顔を上げた。 涙で濡れた顔で、佐々木を見つめてくる。 力強く、肯いてみせた。 やっと、桜はお岩から、離れて、佐々木にありがとうと言ってみせる。 佐々木は、倒れているお岩に近づくと、腕を掴んで、背中に引き上げる。 そして、背負うと立ち上がり、声をかけた。 「ご寮人、行きましょう。向こうの方に殿がいられますから」 「…わかりました。お岩をよろしく、お願いします」 桜は返事をすると、佐々木とゆっくり、歩き出した。 無言で進んでいたら、暗い中でも敵の賊や味方の側の男たちの切り結んだ後、特有の鉄の臭いがする。 桜は戦をあまり、知らない。 それでも、ここで小競り合いがあったことがまざまざとわかるのであった。 「…ここで死んでしまった者達には、悪いことをしたわ。私が付いてこなければ、こんな事態にはならなかったのに」 悔しげに言うと、佐々木は桜に笑ってみせた。 「そんなことはありません。こんな小競り合いは今の世の中ではよくあることです」 今は無事であることを喜びましょうと言ったのであった。 林の中を進むと、ひらけた場所に出た。そこには、腕や足などを負傷した家臣たちの姿があった。 中には無事な者たちもいたが、手当の為に、走り回っているらしかった。 お岩を背負った佐々木も安堵の表情を浮かべている。 そして、桜に顔を向けて、こう言った。 「殿も戻ってこられたみたいですから、行かれませ。俺は岩殿を家臣たちの中に連れて行きますので」 「ありがとう、佐々木殿。岩をよろしく頼みます」 任せてくださいと笑いながら、答えた佐々木を見送ると、桜は晴信の元へ向かった。 「…桜!無事だったのだな」 馬を引いて、歩いていた晴信の第一声がそれだった。 「はい。殿もご無事で何よりです。お岩が大けがを負ってしまいましたけれど」 晴信は驚きながらも、桜の体を片腕で引き寄せた。 抱きしめられながら、桜は抵抗をせずに、体を預けた。 「そうか、岩が怪我を。桜を庇ったのか?」どうして、わかるのかと顔を上げる。 「…それくらいはわかる。お岩はそなたの腹心の者だからな。主の危機となれば、庇おうとするのは当然だ」 よけいに力を強められて、桜は泣きたい気分になった。 「晴信様がお怪我もなくて、嬉しいのですけど。それでも、お岩が心配で」 そうだろうなと晴信は怒らずに、答えてくれた。 腕をほどかれて、桜は一緒に歩くことにした。 晴信は顔や衣が土と血で汚れてしまっており、闘いの激しさを表しているようで、息を呑むしかなかった。 桜も小袖や袴にお岩のものらしき血痕が付いており、着替えたいと思うのであった。 「桜、この度の賊は諏訪の残党のようだ。亡くなった頼重殿の仇を取ろうと企んだのではないかと思った。ご寮人や満隆殿が我らに、好意的なのが気に入らなかったのかもしれない」 そう聞かされて、桜は驚いた。 まさか、諏訪家の家臣たちが自分にまで、手出しをしてくるとは思わなかった。それくらい、恨みは深いのだと実感せざるを得なかった。 「…諏訪のご寮人は今回の賊の話は、ご存知なのでしょうか?」「わからない。だが、ご寮人は関係ないだろうな。満隆殿は利用せずとも、他の者たちは違うかもしれぬが」 それを意味するのは、ご寮人が戦に利用されることだろう。さすがに、それはないと思いたいが。 「殿、このまま、諏訪の湖に行くのは、危険なのではないでしょうか。家臣たちもけが人が出ていますし」 このまま、帰ってはと勧めてみたが、晴信は首を横に振った。 「今、引き返しては、よけいに隙を突かれることになる。残党が襲撃してこない保障はない。だったら、このまま、行くしかないだろう。中心になって、動いている者を突き止めたいしな」 仕方なく、桜は同意した。 朝になるまで、林の中で過ごすことにしたのであった。 お岩は止血をされて、応急処置も施されていたが。 一向に、状態が良くならない。 虫の息で、佐々木や他の家臣たちも心配そうにしている。 「…お岩は桜の侍女だったな。そなたを諏訪に連れていくといったら、自分もついていきますと言ってきた時は驚いた」 晴信がかすれた声で言ってきた。 それに、桜は意外だと思った。 「お岩がそんなことを申したのですか?」 「ああ。桜一人だけでは、心配だからと。だが、連れてくる時期を見誤ったな。あんな怪我をさせてしまうとは思わなかった。まだ、諏訪の残党が怪しい動きを見せているとは聞いていたんだが」 桜はうつむいた。 確かに、自分がお岩を同行させなければ、大けがをさせずにすんだ。 そんな考えが頭をよぎる。 「…お岩は私を刺客から、かばってくれました。館に残していくべきだった。今はそう、思います」 「桜が自分を責めることはない。わたしが楽観していたから、そなたやお岩まで、こんな小競り合いに巻き込んでしまった」晴信は桜の頭を撫でる。 苦笑しながら、言う彼に桜はそんなことはないですと、首を横に振ってみせた。その間にも、時は刻々と進んでいった。 その後、桜は晴信の隣で眠りについた。お岩の様子を見にいきたかったが、家臣たちや晴信に止められた。 仕方なく、地面に厚めの布を敷いて、上に毛皮や打ち掛けをかけて、横になる。 「…ゆっくり、休むとよい。この林を抜けると村があるから、そこで、休憩を取る。お岩を医者に診せる必要もあるしな」 晴信は小声で話してくれた。 それに肯きながら、目を閉じた。 翌朝、桜は近くにあった小川で顔を洗い、身支度を整えた。お岩と桜以外は男ばかりなので、手伝いを頼めなかった。 自分で見よう見まねでやり、髪は高い位置でひとまとめにする。 林の中に戻ると、佐々木がひょっこりと姿を現した。 「姫様、探しましたよ。朝食の用意が整いましたから、いらしてください」 「あ、そうなの。だったら、行くわ」 佐々木は笑いながら、皆のいる所まで、案内してくれる。 たどり着くと、家臣のうちの一人が荷物の中から、干し魚や干し柿、乾飯(かれいい)、水の入った竹筒を出して、桜に渡してきた。 「粗末なものですが、お召し上がりください。乾飯は椀(わん)を用意しますので、その中に入れて、水でふやかしてくださいね」 簡単に説明をされて、桜はありがとうと礼を述べた。 言われた通りに、椀に乾飯を水でふやかして、食べたのであった。
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