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其の五
味はないし、おいしくはなかったが。
今はまだ、旅の途中なのだからと自分にそう、言い聞かせる。
食べ終わると、空になった椀を渡してくれた家臣に返した。
「…全部、召し上がられたんですね。干し魚や柿はどうでしたか?」
少し、驚きながら、言ってきた家臣に桜は笑いながら、こう答える。
「食べましたよ。干し柿は甘みがあって、おいしかったわ。今は贅沢を言ってられないのはわかっているから」
「そうでしたか。それはよかった。姫様は意外と、肝が据わっておられますね」
ほめ言葉なのだろうが、年若い娘といってもよい桜にとってはうれしくない。
「…そうでしょうか。自分ではわからないわ」
戸惑いながら、返事をすると、家臣は朗らかに、笑ってみせた。
「そんなに、謙遜なさらずとも。では、殿のお側に行かれてください。心配なさっているでしょうから」複雑な気分で桜は、礼をいって、その場を後にする。
晴信のいる所まで歩いていくと、彼は他の者たちに指示を出し、後かたづけをさせていた。
「馬に必要な荷物を括り付けておけ。それと、無駄な物は捨てていくように!」
きびきびと家臣たちに命じる晴信は、威厳があって、近寄りにくかった。
桜はしばらく、少し、離れた所でその様子を見守っていた。
あらかたの事が終わると、桜はやっと、晴信に声をかけてみた。
大きな声で呼びかけると、晴信が驚いたらしく、目を見開きながら、後ろを振り返ってきた。
日が少し、高くなってきて、夜は真っ暗であった林の中は明るくなりつつあった。
春も終わろうとしているが、吹く風はまだ、冷たい。
「…どうした。何か、不都合なことでもあったか?」
晴信は桜に近づいてくると、頭一つ分、低い彼女の顔をのぞき込む。
「いえ。不都合なことはありません。家臣の方が晴信様のお側に行くように勧めてくれて」
「わたしの側に?」
不思議そうに問いかけてくる晴信に、桜は何といったらいいかと逡巡する。
「…その、お声をかけようとは思ったのですけど。後かたづけにお忙しくなさっていたから。私、終わるのを待っていたんです」
目線をそらしながら、答えると、晴信は驚きの表情を浮かべる。
だが、すぐに、面白そうに笑い出した。
「…そ、そうか。遠慮せずに、声をかけてきてもかまわないのに。桜は人見知りなところがあるからな」
ははっと、声をあげて、笑われると、気恥ずかしくなり、桜は顔を赤らめながら、俯いた。
そんな桜を見て、晴信はすまないと謝る。
そして、晴信は彼女の頭に手を置くと、軽く、ぽんぽんと叩いてみせた。
子供をあやすような仕草ではあったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった桜であった。
一行は諏訪の湖に、近づきつつあった。馬に乗って、早三日目になった。
さすがに、少しは慣れてきたからか、桜は春から、夏に移り変わりゆく景色を楽しんでいた。
お岩は大けがをしているために、昨日に立ち寄った村の寺に預けてきた。
まだ、意識が戻っていないらしく、付き添い役に家臣の一人を置いて、ここまでやって来たのであった。
「…姫様、お岩殿が心配でしょうが。身の回りのお世話は私がいたしますので」
そう声をかけてきたのは、佐々木だった。
「え、あの。身の回りのことは自分でやれますけど」
馬を近づけてきて、わざわざ言う佐々木に晴信は睨みつけてくる。
「藤十郎。余計なことは言わなくて良い。桜の身の回りの世話はわたし付きの小姓にさせる」
それには、桜も驚く。
「あの、私は大丈夫ですから。お二人とも、喧嘩はなさらないでください」
「…まあ、そうだな。小姓の鳶丸(とびまる)が付いてきているから、桜はあれに身の回りの世話を頼むと良い」
顎をしゃくって、示された先にはまだ、年端もいかぬ少年が馬に乗っている。
だが、目つきは鋭いもので、桜を見据えていた。
会釈をしたが、鳶丸は顔をそむけて、返してはくれなかった。
二番目の弟の名と同じだと思ったが、口には出さなかった。 鳶丸は馬から下りて、桜の近くに寄ってくる。
すぐ側にやってきて、片足を立てた状態でひざまずいた。
「…佐野のご寮人様。鳶丸と申します。以後、お見知り置きを」丁寧に、先ほどとは違って、挨拶をしてくる。
「いえ、こちらこそ。出発する前に挨拶をしていなかったわね」桜も笑顔で返事をした。
鳶丸は軽く、礼をすると、素早く、立ち上がった。
その身のこなしは隙がなく、武芸ができる者の証明になっていた。
「あれは忍の村の者でな。情報収集もやらせている。桜の良き護衛にもなってくれるだろう」
「忍の者だったのですね。道理で、隙がないと思いました。足音を立てていませんでしたし」
歓心しながら言うと、晴信はほうと興味深げな表情をしてみせる。
「よく、わかったな。忍の者は幼い頃から、足音を立てずに歩く鍛錬や相手に気取られない気配の消し方を教わる。そして、十五か六くらいになったら、力試しをさせられてな。認められたら、一人前の忍として、仕事がくるんだ」
晴信の説明を聞きながら、桜は鳶丸に再び、目をやった。
静かに、馬に乗りながら、鳶丸はこちらを見ようとはしない。
それでも、視線をはずすことはできなかった。
桜は再び、前に乗せてもらうと、馬のたてがみをしっかりと握る。
意外と堅いたてがみは簡単に抜けそうにない。
「諏訪までは後、もう少しだ。ご寮人は名を確か、由宇(ゆう)姫といってな。桜よりも一つか二つ、年下だ。わたしとの縁談も出ていたが、体が弱いので、破談になった」
晴信はそう、説明をしながら、馬の背に桜と同じようにまたがる。
手綱を持って、軽く膝で腹を蹴ると、馬はゆっくりと進み出した。
「…由宇姫は晴信様のかつての許嫁に近い方だったんですね。私が嫁いでこなければ、その姫が奥方になれていたでしょうに」
「そんなことは気にしなくていい。わたしは桜を妻として、扱うつもりだ。静子の事もあるが、粗略にするつもりはないぞ」晴信はそう宣言をしてみせる。
桜はいきなり、真剣に言われたので、驚いてしまう。
晴信は桜を抱きしめると、すぐに、放す。
馬は歩いたままだったが、桜が落ちることはなかった。
晴信の馬術がかなりのものだということの裏付けになったようで、さらに、驚くことになる。
横にいる佐々木たちはそんな光景をうらやましく、見ていたり、生温かい目で見つめる者など、様々であった。
晴信はそれを面白く、感じていた。
桜は、馬に乗りながらも、楽しそうにしている晴信を不思議に思った。
後、一日で諏訪の湖にたどり着くと言われた。
早く見たいという気持ちはあまり、起こらない。
「…桜、気がそぞろだな。ここからは上り坂になるから、しっかりと捕まっていた方がいいぞ」
耳元に声をかけられて、慌てて、前を向く。
「あ、ごめんなさい。少し、考え事をしていて」
「別に、気にしなくていい。だが、よそ見をしていると、危ない事を言いたかっただけだ」
晴信は桜にそう言うと、手綱を握り直す。
今は鬱蒼とたくさんの木が繁る山中を進んでいた。
徒歩で行った方が良いのだが、歩き慣れていない桜を気遣って、晴信や馬の扱いに慣れている者達は、乗ったままでいた。
(お岩をあの村に置いてきてから、三日が過ぎたわ。大けがしているから、嫌がるのを無理に押し通したけれど)
桜が考えていたのは、自分付きのたった一人の侍女の事だった。
お岩は大けがをして、半日後、二日前くらいに目を覚ました。
真っ先に呼んだのが、側にいた桜だった。
『…姫様、どこにおられますか?!』
布団の中で首だけを動かしながら、必死に桜を呼んでいた。
そして、桜がすぐに手を握りながら、答えると、ほうっと息をついた。
『お岩、私はここにいるわ。落ち着いて、大丈夫よ』
『ああ、よかった。姫様、わたしめのお側におられたんですね』
そして、ほろほろと涙を流したのであった。
『本当に、姫様を庇って、こんな怪我をしてしまって。若殿様や姫様にはずいぶんとご迷惑をおかけしました』
『気にしなくていいのよ。晴信様や他の人達もお岩の目が覚めた事を知ったら、喜んでくれるわ』
すると、お岩は泣きながらも意地悪そうに笑った。
『わたしの目が覚めた事を知ったとしても、家臣の方々は、しぶといお婆殿だと思うでしょう。まあ、喜ばれる事はないでしょうね』
桜はその言葉に笑ってしまった。
相変わらず、お岩は減らず口だ。
他の者達が聞けば、驚くだろう。
桜はお岩の軽口に気分が軽くなるのを感じた。
まあ、無事に意識を戻してくれて、よかったと思った。
桜が外に出ると、佐々木が近づいてきて、お岩殿は目覚めたのですねとにこやかに笑いながら、言ってきた。
それに対して、桜は笑い返してみた。
佐々木はようございましたと喜んだのであった。
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