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三章 初夏の訪れ 其の一
諏訪の湖の近くまで来た。
ご寮人こと由宇姫の住む館には、夕刻に着くらしかった。
桜は複雑な気持ちだった。
父や弟たちのために、武田に嫁いだが、もともとは妻になるはずだったのは由宇姫なのだ。
馬に乗りながら、悩むしかなかった。
(私、いつのまにか、晴信様のこと、気にするようになってたのね。これがいわゆる恋というものかしら?)
だから、由宇姫のことがうらやましくなった。
後ろにいる晴信にばれないように、顔を赤らめる。
だが、佐々木や他の家臣たちは不思議そうにそれを眺めていた。
「ご寮人はどうなさったのだろうな?」
一番年長の通称、お爺殿が小声で言う。 佐々木もそれには、頷く。
「それはわたしも思っていました。顔をうつむかせて。お体の調子でも悪いのでしょうか?」
お爺殿は見かけは老けているが、まだ、四十九であった。
佐々木の問いかけに、意地悪に笑ってみた。
「…もしかしたら、恋煩いかもしれんな。だが、殿にお輿入れなさっているから、他のどなたかに恋はできまいよ」
「とんでもない。殿は学問もよくおできになるし、武芸もかなりのもの。そんな方の妻になれたのですから、他の男に移り気をするはずがないでしょう」
お顔もよいのに、と佐々木は付け加える。
その顔は少し、赤くなっていた。
お爺殿はまあまあとなだめた。
女子(おなご)の気持ちはわからないと、佐々木はつぶやいた。
皆がそんな会話をしているとは、露知らず、桜は馬から、早く下りたいと思う。まだ、晴信とは本当の夫婦になっていない。
だから、よけいに気のなるのだ。
桜はそう考えるようにした。
夕刻になり、日が傾き始めた。
空が茜色に染まる中、馬から下りる。
諏訪の湖が見えるからと晴信は、山の中へと案内してくれた。
急な傾斜と覆い繁る木に戸惑いながらも、険しい道を進む。倒木や草もあるため、よけながらだと、時間がかかる。
「後、もう少しだ。日が暮れてしまう前には着くだろう」
「…けど、私には、きついです。こんな急な道、歩いたことがなくて」
晴信は手を差し出してくれて、遅れ始めた桜を引っ張り上げる。
薄暗くなりだした頃に、開けた場所に出る。
目の前は崖になっていたが、下に目をやると、夕暮れ時の茜色に染まった空とそれを映した湖が広がっていた。
高くそびえる山々の嶺とぽつぽつとある人家や肥沃な土地が見渡せた。
「…きれい。諏訪の湖って、不思議な色をしていますね」
「ああ。諏訪の湖は、この国の中でも特に、美しいと評判でな。琵琶の湖より、小さくはあるが」
桜は説明を聞きながら、見とれていた。晴信もつい最近、見つけたのだと教えてくれる。
二人はしばし、湖の風景を楽しんでいた。
夕暮れ時も過ぎてから、二人は慌てて、戻った。
家臣たちも湖のそばで、馬を休ませたり、景色を眺めたりして、好きなようにしていたらしい。
佐々木はやっと、戻ってきた二人に、お爺殿と共に、帰ってくるのが遅いと怒ってける。
「殿、それと、ご寮人。もう、夜ですよ。いくら、待っても帰ってこられないから、心配しました!」
「…すまない。なるべく、早めに帰ってこようとは思っていたんだが」
気まずそうにする晴信に、お爺殿も加わる。
「…殿、あなたは大事な御身。軽率な行動は慎むべきですぞ。それに、女人をこんな夜更けに連れ回すのは感心しません。盗賊や熊などに、襲われたら、どうするというのですかな?」ゆっくりと諭してくるお爺殿に、晴信はぐっと、言葉に詰まった。
「あの、お二人とも。私は大丈夫ですから。早く、諏訪満隆様のお館に向かわれませぬと、あちら様にもご心配をおかけします」
桜が口を出すと、お爺殿は眉を片方だけ、器用に上げてみせた。
「ご寮人、確かに、早く向かった方がよいのはわかっています。ですが、何かあってからでは遅いのです。それは殿にもわかっていただきたい」佐々木もそれには、同意する。
桜はしゅんと、うなだれた。
お爺殿の言うとおりであったからだ。
晴信は逆に説き伏せられてしまった桜に、視線をやる。
「その、桜は悪くない。わかった、確かに危険を考えずに、軽率な行動を取ってしまったわたしに非がある。それは認めよう」
「…桜姫も今度からは、殿に注意をなさっていただいて、かまいませんよ。我らの言うことをなかなか、聞き届けてはくださいませんから」
佐々木がため息をつきながら、そう言った。
晴信は、途端に機嫌が悪くなった。
「よけいなことを言うな。それは幼い頃の話だろう」
「お爺殿には聞いておりますよ。殿がよく、館を抜け出されては、いたずらをして回っていたと。武芸の稽古もおろそかになさって、師範にこっぴどく、叱られたとも伺いましたし」
「佐々木、桜によけいなことを吹き込むな!誤解されたら、どうする」
ええ、本当のことじゃないですかとからかう佐々木の胸ぐらをつかんで、晴信は本気で怒る。
普段では滅多に見られない格好に、桜は目を丸くした。
「…ははっ。佐々木も殿もまだまだ、お若いですな。元服なさる前はよく、ああいう風に、怒っておられました」
お爺殿は桜にそっと、近づいて、小声で説明をしてくれた。
「先代の信虎様は、晴信様を嫌っておられましたが。母の御方様や他の家臣たちは、むしろ、哀れんでおられました」
桜は、そうですかと返事をした。
お爺殿は話をこう続ける。
「晴信様は、父君に疎んじられながらも、日に日にたくましく、成長なさいました。そして、元服なさった後、父君と対立されて。二十歳になられるまで、その状態が続いたのです。正室として、京の三条の御方様を迎えられて、子も授かりましたが。父君を追放なさるまで、ずっと、民の恐怖は続きました。辛いご決断だったのはわかりますが」
「…まあ、そんなことが。私、父から、信虎様に嫁ぐと聞かされていたのです。とても、怖い方だと伺いました」
桜が言うと、お爺殿は苦笑いをしてみせた。
「確かに、気性の激しい方ではありました。けれど、お若い頃は武芸が達者な方だったらしいのです。性格も豪放なもので。それがいつのまにか、変わられてしまった。特に、母君様は信虎様の変わりように怯えておられたと聞いております」
眉をひそめながら、話すお爺殿の表情は苦いものがあった。 信虎は若い頃、残虐な性格ではなかったらしい。
むしろ、武芸が達者で豪放な人物であった。
「ああ、これは失敬。少し、年寄りの話が過ぎましたな。もう、夜になりつつありますから、急ぎましょう」
お爺殿はそう笑いながら言うと、桜から離れていった。
晴信がもう行くぞと声をかけてきたので、そちらに戻った。
馬に揺られながら、諏訪満隆の館にたどり着いた。
門から入ると、満隆の側近であるらしい男性が応対に出てきた。
四十を少し過ぎた男性は、顎にひげを生やし、背も高く、体格もよかった。
顔立ちも強面で、桜は少し、怖い人と思ってしまう。
だが、にこやかに笑い、腰の低い人だった。
「ああ、よくいらしてくださいました。武田の若殿、お久しぶりでございます」
声も低めだったが、落ち着いたものであった。
晴信はそんな男性にも屈せず、にこやかに笑いかけた。
「こちらこそ、久しぶりです。益田殿、元気そうで何よりだ」
「はい。若殿、主も中でお待ちです。まずは挨拶をなさってから、ゆるりと休まれてください」
もう、暗いですからと益田が言ったので、晴信は馬から下りる。
桜も自力で下りようとした。
「…桜、無茶をするな。怪我をして、痛い思いをするぞ」
背後から、声をかけられて、振り向くと、晴信が桜の背中に腕を回そうとしていた。
目があって、ため息をつかれる。
「わたしがおろすから、待っていたらよかったのに。甲斐の国に帰ったら、馬術の練習をやらなければならないな」
そう言われて、桜は驚いて、声をあげてしまった。
「…なっ、本気ですか?!」
そう言った瞬間、いきなり、馬が前足を上げて、暴れ始めた。
桜の大声に驚いたらしい。
いきなりのことだったので、桜は必死に馬の背中に付けてある鞍にしがみつこうとした。
だが、馬はひひんと高くいなないて、振り落とそうとする。
「…桜、手綱に掴まれ!」
晴信に言われて、手綱を目を動かして、探した。
赤い綱が見えたので、それを片手で強く掴んだ。
両手で掴もうとしたら、馬の背から、体がずり落ちてしまう。
足や膝が引きずられる形になり、そのまま、馬は走りだそうとした。
すると、馬に走り寄る影があって、その人物はどう、どうと手綱を引っ張り、馬を落ち着かせた。
一瞬の出来事だったが、桜は腰や膝から力が抜けてしまい、その場にへたり込んでしまった。
「…姫様、大丈夫ですか?!」
手綱を握った状態で、声をかけてきたのは佐々木だった。
「さ、佐々木殿。ありがとう、危ないところでした」
慌てて、礼を言えば、佐々木は大きく、息をついた。
「馬に乗っている時は、大声を上げたりしないでくださいね。馬が驚いてしまいますから。割と、こいつら、気が小さいので」
「わかりました。今度からは気をつけます」そう言うのが、精一杯だった。
佐々木が馬を歩かせようとした。
けれど、桜は手綱を放すこともできずに、動けなかった。
仕方なく、晴信が桜に近づき、こわばってしまった手を握って、手綱から、放してくれた。
恥ずかしいが、桜は一本ずつ、指を手綱から、放してもらう。
足腰も立たないため、晴信は桜を支えて、引きずるように馬から、距離を取った。
「…も、申し訳ありません。殿にご迷惑を」「かまわん。わたしがいきなり、馬術の練習を言ったから、桜は驚いてしまった。だが、本当に馬に慣れてもらわなければならなくなったな」
弱ったと、晴信は考え込んでしまう。
その光景を見ていた益田は、慌てて、二人に声をかけてくる。
「若殿、そちらの女人はどなたですか!由宇姫様という方がおられながら、他の方をお連れになるとは」「…由宇姫のことは断ったはずだが。あちらもそれを了承している」
晴信が面倒くさそうに言うと、益田はぴくりと片眉を上げた。
「そうだとしてもです!由宇姫様にどう、ご説明したら…」
益田が説教をし始めようとした時だった。
「益田、こんな、暗い中で何をしておる。お客人を早く、お迎えせぬか」
低いしわがれた声が響いた。
皆が振り向くと、そこには白髪をきれいにまとめ、顔にもいくつかのしわを刻んだ老人がいた。
背筋はしゃんとしており、穏和そうな老人であった。
益田は驚いたらしく、ひざまずいて、頭を下げる。
「…お館様。失礼をいたしました」
「謝りの言葉は良いから。今すぐに、お客人を中に案内するのだ」
益田はかしこまりましたと言うと、晴信たちを中に招いたのであった。
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