其の五

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其の五

  館の一室にて桜は眠れぬ夜を過ごしていた。  障子を静かに開けて廊下に出てみる。 人の気配はなく桜は歩いて庭に下りた。  空には満月が出ており、満天の星空であった。  部屋の近くに桜の大木が植えてある。  ひらひらと花びらが落ちていて、幻想的な光景を作っていた。 「きれい…」  桜はつい、声に出していた。  だが、誰も答える者はいない。  そのはずだった。 「姫、ですか?」  後ろから、若い男の声が聞こえる。  桜は慌てて振り返った。 「あの、どなた?」  短く問いかけていた。  そこには背の高い、白い寝巻き姿の男がたたずんでいる。 「…桜姫、ですね?こんな夜中にどうされましたか」  丁寧な言葉使いに桜は館に仕えている家臣の誰かかと思った。  だが、こんなしどけない格好をしているはずがない。 「もしかして、こちらの館の主の晴信様ですか?」  試しに尋ねてみると、男は驚いたように、目を見開いたらしかった。 「…わかってしまいましたか。私は確かに、武田晴信です。あなたはなかなか、察しがいいですね」 「まあ、そんなしどけない格好をなさるのは、館の主くらいです。だから、すぐにわかりました」  自然としゃべってしまっていた。  晴信は面白そうに笑った。 「…晴信様は、私を側室にとおっしゃっていました。正室である方や他の側室もおられるのに、どうして、新しく加えようとなさるのですか?」  桜はいつもの無表情で尋ねていた。  晴信は呆気に取られたようで、目を少し見開いて、黙ってしまった。  だが、しばらくして、笑い出したのだ。これには、桜の方が驚いた。 「これは、意外なことをおっしゃる。私は、佐野家を抑えるためにあなたを側室にと言ったのですよ。姉の梅乃殿でもよかったのですがね。許嫁がいるというので、妹の桜姫にした」  面白そうに話してみせる晴信に、桜は軽く、失望する。  やはり、姉上の言う通りだった。  私に味方になってくれるのは、お岩だけだ。 「そうでしたか。確かに、私か姉を妻にして、男の子が生まれたら、岩谷城の跡継ぎにさせる。うまいやり方ですね」  淡々と告げれば、晴信は少し、目を細めてみせた。  その表情は鋭く、射るようなものだった。  にこやかにしていても、眼光の鋭さは歴戦の武将のそれである。 「…桜姫は見かけは、儚げでしとやかそうだが。中身はなかなかですね。さすがに、公家の姫とは違う」  桜はそれを言われて、すぐに気がついた。  正室の三条の方を指しているのだ。  すでに、二人ほどの子が生まれていると聞いた。  桜は三条の方に、嫉妬されはしないかと、危惧を抱いた。  まだ、十六だが、今のご時世では嫁入りする年齢としては遅めだ。  さあっと、風が吹いて、雲によって、月が隠される。  暗くなってしまったので、桜は後ろを向いて、部屋に戻ろうとした。  だが、腕を掴まれて、止められてしまう。 「桜姫、本来は婚儀を挙げるまでは触れない方がいいのだが。今だけは、良いだろうか?」 「…ごめんなさい。私、まだ。心の準備ができていなくて」  すると、簡単に腕を放してくれた。  桜は急いで胸元を整えて、寝室に戻ろうとする。 「…姫、いや。桜殿。明日も今の時刻に会えないだろうか?」 「わかりました。お話するだけであれば…」  晴信はその答えに満足したのか、背を向けて、庭を立ち去っていった。  桜も戻ると、布団に潜り込んだ。  明日からは、躑躅ヶ崎の館で暮らさなければならない。  お岩が付いてきてくれたから、今は安心していられた。  だが、これからはそうはいかないだろう。斉藤道三や他の武将たちが跋扈する今の時代では、武田家も続くかどうかはわからない。  いつか、ここを出なくてはならない日も来るのだろうか。  桜はそう、思いながら、眠りについた。  翌日の朝方、桜は日が昇る前に目が覚めた。  婚儀を終えるまで、晴信は自分に手を出してはこない。  それだというのに、寝巻きという薄着で会ったのだ。  無防備というにも、ほどがある。  後で、お岩にばれたら、お説教ものだ。しかも、初対面に近い殿方の前である。秘密にしておこうと思うのであった。  身支度をすませて、桜は朝食を取る。  そして、父の泰道に文を書こうと思い立った。 「岩、父上に文を書きたいのだけど。晴信様に許可をいただけないかしら」  すると岩はさっと、表情をこわばらせた。 「お国に文など。桜様がそんなことをなさったら、間者として、疑われます。ですから、それはできませぬ」  頑なに断られてしまった。  ただ、武田の館に無事に着いたことを報告したかっただけなのに。 「よいですか、桜様。あなた様は側室でございますが、それと同時に、人質に近いのです。お忘れなきよう、お願いします」  文を書いて送るとしても、こちらの内情を伝えてしまうと、命を取られかねませんとお岩に、忠告をされたのであった。  文は断念して、桜は代わりに、庭に出ることにした。  昨日の夜に見た桜の大木が忘れられなかったのだ。  廊下を横切って行けば、すぐに、満開に咲いた薄紅色の花が目に入る。  付いてきてくれたお岩はほうと、感嘆のため息をついた。 「これは見事な桜です。岩谷のお城にもありましたが、こちらもようございますなあ」 「本当ね。あの百年桜と比べてみても、こちらも負けてはいないわ」 「…そうですね。あの桜は、お祖母様が嫁入りをなさった時に、当時の殿様が植えるように命じられたのです。元は山に生えていた木を城の庭に植え替えたとか。もう、私も生まれていない昔の話です」 そうなのと桜は相づちを打った。 二人して眺めていると、後ろから、声をかけられた。 「…これはお岩殿。それに桜姫。二人とも、いかがされた?」  岩谷城から、付き従ってきた津田十重郎だった。 館にしばらく、滞在する事を晴信から、許可されているらしい。 「桜を姫様と見ていたのでございますよ。津田様は、お仕事は終わったので?」 「もう、終わった。後、五日ほどいましたら、城に戻ると若殿に申し上げましてな」  あれまあとお岩は、大げさに声をあげてみせた。
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