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其の三
家臣の誰かの馬に乗せてもらうと思っていたが、晴信は自分と一緒に乗るようにといってきた。
しかも、前にである。
「あの、私は岩と同じ、歩きで行きますので。お気遣いは無用です」
取り繕っていっても、晴信や他の家臣達から、失笑された。 「…ご寮人はなかなか、異なことをおっしゃいますな。あまり、館を出ず、閉じこもっておられるあなたが信濃まで、徒歩で行こうとしますと、馬で行くよりも余計に時間がかかりますぞ」
中年の家臣が豪快に笑いながら、忠告をしてくる。
「…それは。私は大丈夫です。ただ、殿の馬に乗せていただくのは失礼に当たるのではないかと、思っただけで」
「そんなことはありませんぞ。ご寮人は殿が大事になさっている方ですからな。足にまめでもできてしまわれたら、わしらが後で殿に怒られます」
家臣がそう答えると、晴信も苦笑いしてみせる。
「怒るとは心外な。だが、桜殿の足にまめができてしまうのは、わたしも避けておきたい。だから、馬に乗っておきなさい。その方がいいだろうから」
仕方なく、桜は照れくさいのを堪えて、晴信の馬の背にまたがったのであった。
袴をはいていて、よかったと桜は思った。
だが、体中の関節がぎしぎしときしみそうになっている。
お尻も痛くって、早く、馬の背から、下りたいと願ってしまう。
馬は、舌をかみそうなくらいに飛ばしている。
晴信はそれくらい、速く走っていても、平気そうにしていた。
延々と走るかに思えたが、日がだいぶ、高くなってから、一旦、休憩となる。
「…姫様、わたしも馬に乗せてもらいました。大丈夫でございますか?」
お岩が心配そうに見上げてくる。
まだ、馬に乗っている桜よりもお岩は平気そうだ。
「大丈夫、じゃないわね。体の節々が痛い」はっきり言うと、お岩はそうですかと肯いた。
後ろの晴信は大笑いしながら、桜にこういってきた。
「…ははっ。確かに、わたしも桜殿が振り落とされないようにするので、気を使ったが。これくらいで音をあげているようでは、後が大変だな」体がくっついているので、笑うたびに、震えが伝わってくる。
桜は顔を赤らめながらも、下りようとした。
すぐに、晴信が気づいて、先に下りてくれた。
「…桜殿。わたしがおろすから、手を」
そういわれて、おずおずと手を出した。 見かけよりも強い力で握られると、ぐいっと、引っ張られる。
ほぼ、抱き抱えられながら、馬から、下りる。
晴信のたくましい腕に支えられながら、地面に足をつけた。 鐙に足をかけて、下りるのが普通なのだが。
桜は初めてなので、晴信が抱えて、おろしたのであった。
「…ありがとうございます」
小声で礼を述べると、晴信は微笑んでみせた。
「桜殿は慣れていないだろうから、わたしが抱えて、下ろしただけだ。今度からは、自力で下りられるようになってくれるとありがたいな」
「善処いたします」
「頑張ってくれ。そうしてもらえると、こちらも心配の種が減る」
思ったより、気さくに話す晴信は館にいる時よりも伸びやかである。
桜も自然と笑っていた。
馬を近くに繋いでくると言ったので、一旦、晴信は桜から、離れていった。
「姫様、今はまだ、信濃には着いていないそうです。諏訪湖までは後、三日はかかるかと」
桜は体を叱咤しながら、歩こうとしていたので、お岩からかけられた言葉にへたり込みそうになった。
「三日、ね。諏訪湖まではまだまだ、遠いわ」
ため息をつきながら、周りの様子を確かめる。
どうも、山沿いの道らしく、なだらかな斜面に木や草が生えていた。
桜は思い思いに休憩を始めた一同の中に、入っていった。
それから、休憩を終えて、桜は自分で鐙を使いながら、馬に乗ってみた。
乗り方は家臣で馬の扱いが得意な者が晴信の代わりに、教えてくれた。
「…馬に乗るときは、鐙に足をかけて、すぐに大きく開いてください。そして、鞍にまたがるんです。後、鐙に足をかける時は左側からやること。騒がしくしなければ、馬は暴れたりしませんから」
てきぱきと説明を受けながら、桜は鐙に言われたように左足をかけた。
家臣は佐々木藤十郎景定といって、まだ、若かった。
年は桜より、三歳上で十九歳とのことだった。
「そう。そのまま、左足に反動をつけて。右足は反対側の鐙にかけてください」
「わかりました」
肯いて、そろりと右側の鐙にも足をかけた。
すぐに、腰を鞍に下ろすと、藤十郎はあどけなさが残る顔に満面の笑みを浮かべる。
「そうです、よくできました。鐙から、足を出していいですよ」桜はゆっくりと鐙から、足を出して、少し、前方に移動した。
後に続いて、晴信が乗ってきて、軽々と乗ってみせる。
「…ご苦労、もういいぞ。藤十郎は教え方がうまいだろう。あれはわたしの馬術の師の息子でな。馬の扱いもかなりのものだぞ」
「そうなのですか。佐々木殿、ありがとうございました。また、馬について、教えてください」
大きな声で言えば、藤十郎はにこやかに笑いながら、自分の馬の元へと戻っていった。
だが、後ろにいる晴信は桜の耳元に顔を近づけると、低い声で囁いてくる。
「…桜、藤十郎の方がそんなによいか?あれの方がそなたとは年が近いが。わたしの前で、他の男に笑いかけるな。勘違いされるぞ」
意外と、艶っぽい声に桜はぞわぞわと肌が痺れたような感覚に襲われる。
「私は別に、誘惑するために笑いかけた訳ではありません。佐々木殿は親切にしてくださったから、お礼を言っただけです!」
反論してみても、晴信はかえって、機嫌を悪くする一方だった。
桜のうなじの部分をさっと、撫でると、晴信は腹に両腕を回して、抱きすくめた。
「そんなに、わたし以外の男がよいのか。わたしは二十一になるがな。すでに、正妻もいるし」
桜は顔を赤らめながら、逃げようと身動きするが。
晴信の腕の力は強く、離れることができない。
「…お放しください。私には手を出されない約束だったではありませんか」
泣きそうになりながらも訴える桜に、晴信は加虐心を刺激されたらしい。
桜をより強く、抱きしめて、抵抗を封じようとする。
「わたしとて、男だ。そなたのように、美しい女人を見れば、手を出したくなる。今までは、政略だからと手を出さずにいたがな」
嘲るように、笑った晴信であった。
後ろから、抱きすくめられた状態で桜は身動きが取れない。家臣たちは気づかずに、遠巻きになっている。
晴信はそれを良いことに、桜の耳に口づけた。
軽いものではあったが、十分、桜には刺激になる。
きゃっと、声をあげてしまう。
「桜は耳が弱いらしいな。藤十郎には必要最低限、声をかけないと約束したら、離してやろう」
笑いを含んだ声で言われて、心の臓が早鐘を打つようになった。
「…そんな無茶な。私には、できません」
そう答えると、晴信は口角を上げる。
桜には見えていなかったが。
「そうか。約束ができないのだったら、このままだぞ。何だったら、夜中に続きをしてもよいが」
さすがにそこまで言われて、桜は観念せざるを得なかった。 「わかりました。佐々木殿には必要以上に、話しかけません!」「…本当か?」
「本当です。私も約束は守ります。晴信様のおっしゃるとおりにいたしますので」
必死に言うと、晴信は抱きしめていた腕を緩めた。
ほっとした様子で、ため息をつく。
桜はまだ、収まりそうにない心の臓のある胸を押さえる。
落ちてしまわないように、相変わらず、桜を支えたままであったが。
緩められた腕の中で桜は後ろにいる藤十郎に申し訳なさを感じたのであった。
二人して、ゆっくりと家臣達のいる所へ戻った。
桜は膝に力が入らないので、晴信が自分に寄りかからせていた。
その光景を見て、皆、仲がよろしいことでと、呆れているようであった。
「…姫様、大丈夫でございますか?」
唯一、女人であるお岩が心配そうに尋ねてくる。
それに、桜は赤面しながら、肯いた。
「大丈夫よ。ちょっと、馬にずっと、乗っていたから。足腰に力が入らなくなってしまったの」
本当は他の理由で力が入らないのだが。いえるはずもなく、曖昧に答えるしかなかった。
晴信にそれとなく、恨みがましい視線を送るも相手は、涼しげな顔をしている。 それに怒りを覚えながらも、桜は晴信に寄りかかるしかなかった。
夜になり、野宿をすることになった。
「桜、眠るときはわたしの側にいるように。何かあったら、困るからな」
「はあ。私、お岩と一緒に眠りたいのですけど。だめなのですか?」
だが、晴信はよけいにまた、機嫌が悪くなった。
「だめだ。わたしの側の方が安全だからな」仕方なく、桜は肯いた。
何だか、諏訪湖に向かう途中から、晴信がやたらと桜にかまうので、それに首を傾げるのであった。 お岩がその光景に、良かったと思ったことは桜には伝わらなかった。
晴信の側で寝る事に決めたが、桜は緊張のあまり、目がさえてしまった。
たき火のぱちぱちとはぜる音と他の人々の規則正しい寝息の音だけが耳に届く。 晴信も座った状態で、眠っている。
さあっと風が吹いて、雲が晴れてきた。少し欠けた下弦の月がのぞいてきて、辺りがうっすらと明るくなる。
それに見とれていると、ふいにがさりと茂みの揺れる音がした。
桜がそちらに目を向けてみると、月明かりの下、刀を構えた男が立っていた。
「…やっと、見つけた。武田晴信。お館様の仇!」
低い声でいいながら、斬りかかってきた。
桜は悲鳴を上げる事もできずに、その光景をただ、呆然と見ているしかなかった。
「やれやれ、まだ、残党は来ないと思っていたのに」
晴信は瞼を開いて、立てた状態で持っていた刀を鞘から、音もなく、抜いた。
素早く構えると、刺客とおぼしき男が飛びかかってくる。
それを寸でで避けると、膝を曲げて、低い姿勢を取った。
刀を横になぐと、男の腹の辺りから、血が出てくる。
ぐうっとうなりながら、男がしゃがみ込むと、晴信は刀を振って、付いた血をはらった。
妙にゆっくりとした動きに見えたが、他の家臣たちも応戦しているらしく、次第に自分が喧噪の中にいるのだと実感した。
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