花の散るらむ

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花の散るらむ

 庭の草木が、そよそよと心地よい風に揺れている。季節は春。縁側から見る枝葉の先の蕾も、少しずつふっくらと綻び始めた頃のことだった。  この辺りの古い土地を支配する、由緒正しい名家。俺は、そんな家の生まれだった。  小さい頃から厳しい教育を受け続け、他の若者のように自由に遊ぶことも叶わず、ただ机と向かい合う日々。結婚相手も進むべき道も俺が生まれる前から全て決められていて、それが当たり前なのだと思っていた。  ──けれど、 「君は、とても綺麗だな⋯⋯!」  初対面で開口一番、そんな言葉をかけてきたあんたに、俺は心を奪われたのだ。なんて真っ直ぐで、凛とした顔つきの男なのだろうと。  彼が屋敷の塀の影から顔を覗かせた時、俺はひどく驚いて声も出なかった。  だってこの家は、周辺でも一目置かれるほど大きな家なのだ。だから普通の人はほとんど近づこうとしないし、仕方なく通りすがることになっても足を止めたりはしない。 「っあ、失礼した! 決して、不審者などではないのだぞ。ただ、そちらの庭の花があまりにも美しかった故、少し見惚れてしまってな⋯⋯。他意はない、本当だ!」  俺のことを綺麗だなどと輝く瞳で告げたのち、そんなことを大声でまくし立てて彼はこちらへがばりと頭を下げた。  それがとても可笑しくて、俺は思わず彼をこっそり庭の内へと招いたのだ。  それ以来、俺たちは秘密の逢瀬を重ねた。 「ほうら、見てくれ!これを見た瞬間、ふいと君を思い出してな。とても綺麗だろう、ぜひ君に贈りたかったのだ!!」 「ふむ、少し肌寒いか? おれは平気だがな。どれ、これを羽織るといい。暖かくて柔らかいだろう。俺も重宝している」  彼はここを訪れるたび、俺に素敵な贈り物をしてくれた。  俺はそれをひとつずつ大切に眺めて、こっそり棚の奥へ隠していた。その日ごと彼が見せてくれる柔らかな表情を記憶に留め、箱入りでものを知らない俺に次はどんなものを見せてくれるのだろうかと、いつも楽しみにしていたのだ。  "人を好きになる"という感覚を知らなかった俺に訪れた、人生でたった一度きりの春だった。  ──けれど、ある日のこと。 「ねぇ、これは何?」  母が怖い顔をして、秘密の棚を開け放った。 「っあ、それ、は⋯⋯」  駄目だ。  それは、俺の宝物。  忌々しいものでも見るかのように、横目でそれを見やって母は言う。 「ごめん、なさい、っひとが⋯⋯大切な人が、俺にくれたんだ。だから俺は、」  お願い、これは俺の大事なものなんだ。  これから先いくらでも家の言いなりになるから、自由なんていらないから。だからこの宝物たちだけは、俺から取り上げないで。  彼がくれた桜の花を押し花にしたものや、美味しいのだと言ってひとつくれた甘味の包み紙、そして、揺らせばしゃらんと音が鳴る淡い色合いの綺麗な髪留め。  指先が震える。一体、どこからばれてしまったんだろうか。  この家が周囲から恐れられるほど強い権力を持つ血筋だと、自分が一番解っていたはずだったのに。  彼が連れてきてくれる『新しい世界』に、俺は浮かれすぎていたのだ。  いつも唐突に現れる彼が、今日だけは現れないことを祈った。けれど、  ──がさり、庭先で草むらの一角が揺れた。  瞬間、俺は自分の背筋が凍るのを感じてがばりと勢いよく立ち上がる。 「ごめん、なさい⋯⋯! あの人とはもう会わないから。言葉も交わさないから、あのひとだけはどうか──」  声が震えてどうしようもなかった。それに、普段は滅多に大声を出さないから喉がひどく苦しい。決して揺るぐまいと両足の指でしっかと掴んだ畳が、ぎし、と音を立てて軋んだ。  けれど彼がこの騒ぎから異常事態を察し、姿を現すことなく引き返してくれたら。 「どうか、許して⋯⋯っ」  あぁ、意識が遠のく。  普段は家の中で静かにしているような俺が、滅多なことはするものじゃなかった。これでは、いざという時あの人を守ることができない。 「──っ、〜〜⋯…!!」  彼が、俺の名前を呼んでいる。  本当に馬鹿だな、あんたは。  せっかく俺があんたを近づけまいと頑張ったのに、全て水の泡じゃないか。  俺が意識を取り戻した時、もうすでに辺りは普段通りの静寂に満ちていた。 「お目覚めですか、坊っちゃま」  幼い頃から身の回りの世話をしてくれているばあやが、俺の顔を覗き込んで言う。 「⋯⋯あいつ、は」  ばあやは、数秒躊躇ったのち微かに悲しげな表情でゆるりと口を開いた。 「あの方は、持病をお持ちだったのですね。意識を失う坊っちゃまを受け止められてから奥様と口論になったのですが、その声を聞きつけた使用人と揉み合いになった途端、急に発作を起こされて」  ばあやの話では、その後哀れに思った一部の使用人たちがこっそりとあいつを医師の元へ運び込んだのだそうだ。 「命に別状はなかったものの、目を覚まされるのはいつになるか分からないと⋯⋯」  途中から、ばあやの話はほとんど耳に入ってこなかった。瞳から勝手に熱いものが溢れて、溢れて、止まらなくなってしまって。 「しばらく、ひとりに、して」  やっとのことで口にした言葉は、ずいぶんと頼りなげに揺れてしまった。  俺が、わがままを言ったから。  自分の身の程も知らず、自由に心を動かして彼を、愛しい"と思ってしまったから。  だからその所為で、彼が傷つけられた。 「──……っこんな事になるなら、好きになんてならなきゃ良かった⋯⋯!」  喉の奥が、焼けるように熱くて。  ヒビの入ったあの髪飾りが手を刺す痛みだけが、俺を現実に引き止めていた。
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