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最後に
「え? だって、遊びに本気なんか出すわけないじゃん」
瞬間、パァン、と乾いた音が右頬から鳴った。
ふと上げた視線が目の前の潤んだ瞳を捉えてしまい、俺は逃げるようにスマホの画面をスクロールする。⋯⋯あ、明後日の約束のことで連絡が来てる──だなんて、今は関係ないか。
「ずっと思ってた。君はどこかいつも一線を引くなぁって。それは、こっちが本気になってきたら困るってこと、だったんだね」
「⋯⋯ま、そうなるかな。ごめんねぇ、俺、マジのやつとかちょっと無理でさぁ」
嘘は言ってない。
お前がどう思おうが、それによってこの関係がどうなろうが、"これ"は事実なんだからどうしたって動かしようはない。
俺は、ぬるくなったカフェオレをまたひと口含んだ。ここは美味しくて気に入っている店なのに、何だか申し訳ない気分になった。
「5年、だっけ。長かった気もするけど、こんな呆気ないものだったんだ」
声が震えるのを抑えきれていない。
けどお前はプライドが高いから、こんなことでは絶対に俺の前で泣いたりしないだろう。
「ま、お前はいい奴だからさ。きっとすぐにちゃんとした相手が見つかるよ」
少し後押しするように俺がそう言えば、お前は勢いよく顔を上げて目を見開いた。
「──なに、それ。信じられない」
あぁ、これは相当怒っている。
こいつは、感情が昂れば昂るほど言葉をなくすのだ。どうでもいいことはよく喋るくせに、大事なことはいつもうまく話せない。
「ん? まだ俺が好きなの? いいよ、遊びで適当にやれるんならいつでも歓迎」
にっこりと笑みかけてやれば、お前は顔を真っ赤にして勢いよく立ち上がった。
がしゃん、と食器が音を立てる。
あーあー危ないなぁ、と俺が言えば一応気にする素振りは見せたものの、お前はそれきり俺の目も見ず言葉だけを残していった。
「バイバイ。もう一生、目の前に現れないで」
余命3ヶ月、なんて、物語の中の出来事でしかないと思っていた。
医師によれば、もう手の施しようもないくらいに悪化してしまっているのだという。
できる限りのことはしますが、なんて言ってはくれるものの、助からないのは明白だった。
ならば、心残りはひとつ。
本当であれば、そろそろプロポーズを考え始めていたところだったのだ。
長い間隣にいてくれて、苦しい時も支え合ってきた大切な人だった。できることなら一生離したくはないし、あいつを生涯かけて幸せにするのは俺でありたかった。
けれど、それは叶わない夢らしい。
素直に話せば、あいつはきっと受け入れて最期まで俺を愛してくれるだろう。
けれど絶対に俺の前で本音を吐き出したりしないし、涙だって一滴も流さないに決まっている。あいつは馬鹿真面目で気を遣ってばかりいるから、急に俺の命なんて背負わせたらきっと壊れてしまう。
それに何より、俺が辛いのだ。
先がないことをじわじわと自覚しながら、俺を大事にしてくれるあいつをただ苦しめるだけで他になにもしてやれない。そのことが、どうしようもなく辛い。
愛してる、なんて言えなかった。
それはあいつを縛る言葉だ。
俺が死ぬまで⋯⋯いやもしかすると、俺が死んでもなおずっと、ずっと。
それならいっそ俺なんか忘れて、別の場所で幸せになっていてほしい。
『本当はもっと早く入院するはずだったのを、無理言って明後日にしてもらったんだからね。ふらふらしてないで大人しくして』
電話口で、母が言う。
「うん、わかってる。用事はもう終わったし、これから帰るよ。ごめんね、色々」
彼女にも、迷惑ばかりかけている。
『謝んないの、馬鹿。』
俺に泣く資格なんてない。
けれど衝動は沸き上がってきて、苦しくて、苦しくて。
それをすべて止めるほどの力を、俺はもう持ち合わせてなどいなかった。
あぁ、憎たらしいくらいに綺麗な空だ。
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