アイノノロイ

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アイノノロイ

 先日、恋人が死んだ。  仕事の帰り、明かりの少ない自宅までの道を歩いているところで通り魔に刺されたのだという。全身を滅多刺しにされて、顔は誰かの判別もつかないような酷い有様だったらしい。  葬儀は、ごく近しい家族や友人のみで小さく行われた。  その間もろくに実感は湧かないまま、恋人が眠るというその棺にも近づけはしないまま、ただぼんやりと話を聞いてお線香をあげて、やっぱりぼんやりと食事の席に座って、ろくに喉を通りもしない食事へ気休め程度に箸をつけ、そのままぼんやりと帰ってきたのだ。  自分たちも辛いだろうに、恋人の親御さんがしきりに僕を心配してくれるのを大してうまくもない愛想笑いで誤魔化して、逃げるようにそそくさと葬儀場を出てきたのだった。 「……ただいま」  写真立ての中で笑う愛しい人へ声をかける。  当然、返事はない。  手に取り額に寄せた。木枠と、それから無機質なガラスの感触。もうこのひとの顔も声も思い出の中にしかありはしないのだと、その温もりに触れることは叶わないのだと、思えば思うほどに言いようのない感情が僕の胸を……首を、きつくきつく締めた。  テーブルに乗せられたままの、あのひとのマグカップ。底にうっすら残ったカフェオレ。あのひとは甘めが好きだったな、と関係のないことを考えてひとり笑った。写真立てに唇を押し当てて喉の奥で息を殺す。 「────…………ッ、」  あのひとはもう、こんなにも、冷たくかたい存在になってしまった。  どれだけ望もうと、希おうと、二度と僕のそばへは戻ってこないのだ。向かい合って食べたご飯の美味しさも、ふたりで見た空の美しさも、同じベッドで向かい合って笑った瞬間の幸福も……もう二度と戻りはしないのだと、思い出ばかりが残る部屋でやっと僕は実感した。 「な、んで、」  なぜあの人でなくてはならなかったのだ。  なぜあのような死に方をしなくてはならなかったのだ。  なんて、なんてむごい。痛かったろう。苦しかったろう。……怖かった、ろう。せめてそばにいてあげたかった。僕が代わってあげたかった。ふたりで幸せになろうと誓ったのに。どんな時もふたりで分け合おうと約束したのに。 『何があっても、君は追いかけてきちゃ駄目だよ。ふたり分生きてもらわないと』  そう言って笑ったあのひとを思い出す。  本当は弱い僕がひとりになってしまったら、きっと深く傷ついてあとを追って来てしまうだろうと。生きてくれなくては困ると、あのひとは僕へ笑みかけて言ったのだ。  そのときは、縁起でもないことをと話をやめさせたのだけれど。 「ばかだな、本当に…………」  結局はあのひとの言葉に、繋ぎ止めてもらっている。  買ってあったコンビニのパンをひと口齧る。 「っおぇ、」  途端にひどい吐き気が込み上げて、僕は口を押さえた。飲み込むこともできず、手繰り寄せたゴミ箱に吐き出す。  今日はもう、寝てしまおう。  何も胃に入れたくない。何もしたくない。何も考えたくない。とにかく、疲れたのだ。腹ごしらえも明日にしよう。  明日全部ちゃんとやるから、許してくれ。  愛しい人へそう願って、僕は静かに目を閉じた。ひんやりとして固いフローリングの感触も、今の僕には心地よかった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  キッチンから聞こえる包丁の音で目が覚めた。  トン、トン、トンと食材を刻む音。炊き立てのご飯と、温かい味噌汁の匂い。 「……ん、」  周りを見回した。  昨日は確かリビングのフローリングの上で横になったはずだけれど、なぜかベッドに寝かされ布団を被せられている。 「おはよう、目ぇ覚めた?」  僕が布団から体を起こしたことに気づいたその人は、嬉しそうに声を上げた。 「んもう、昨日何も食べないで床で寝たでしょ? 体痛めるからせめてベッドで寝てって、何回も言ってるのに」  キッチンからの声はなおも続く。  トン、トン、トンと包丁の音が止まらない。 「お腹、空いてるよね? ご飯作ってるから、もう少し待ってね。……あぁ、安心して。あなたの苦手なネギはちゃんとよけてあるから」  何も言えないまま、僕は体を硬直させた。  カタカタと震え出す指先がしっかと布団を握る。そっとスマホを手に取って、ここがどこであるかを頭の中で確認し出した。  アパートの一階、隣に住人はおらず、近くには……コンビニがあったか。それから── 「ふふ、やっとふたりきりになれたね♡」  包丁を握った女が、気付けば僕のすぐそばで笑っていた。  ヒッ、と、喉の奥で空気が鳴る。  ────だって僕は、この女を、知らない。  口の端をにんまりと持ち上げて、奇妙に目を細めて、女は笑った。 「うふふ、幸せ。やっと邪魔者がいなくなったんだもの。……あなたも、嬉しいわよね? ずっとあんな変なのに付き纏われて、怖かったでしょう? もうだいじょうぶ、」  "あたしが、殺したから"。  背筋を汗が伝った。  何も言えないまま、僕は浅い呼吸を繰り返す。 「あ、そうだわ。今日のおかず、自信作なの。味見してみてくれないかしら、唐揚げ」  震える手で、こっそりとベッドのすぐそばにある窓に指をかけた。  ──と、 「ひ、」  真っ赤な色をのせた白い指先が、僕の手を捕まえる。包丁がベッドにどさりと落ちて、僕は呼吸の仕方を忘れた。 「暑いの? でもあたしは寒いから、窓は開けないでほしいわ」  白い指先が再び持ち上げた包丁の刃の根本に赤茶色の汚れがこびりついているのが見えて、ひゅっと心臓が寒くなるのを感じる。 「────食べてくれるでしょう? あたしの、料理」  曖昧に笑って、僕は小刻みに頷いた。  女は満足そうに笑って、料理をテーブルまで持ってくる。 「ふふ、自信作なの。」  そう言って僕の前に唐揚げを差し出した女の左手の薬指には、僕があのひとへあげたシルバーのリングが嵌められていた。  壊れた写真立ての破片が、ゴミ箱の中で静かに埋もれていた。
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