0人が本棚に入れています
本棚に追加
欠けたあなたを取り戻すまで
いつからか、涙を流せなくなった。
感動する映画を見た時。
ホラー映画を見て怖かった時。
大事なものを無くしてしまった時。
悔しい思いをした時。
胸を締め付ける何かはあるのに、まるで深い深い海の底へ沈んでしまったみたいに、どうしても何も動かない。涙が、出ない。
「困ったね、これは」
ひどく泣きたい気分なのに、わだかまりは喉の奥に詰まったまま、それ以上湧き上がってくることがない。胸は痛むのに、苦しいばかりでそれ以上込み上げてこない。
「ね、僕を引っ掻いてみてくれない?」
つんと額をつついて背を撫でた小さなサバトラの毛玉は、にゃあと鳴いてひとつ欠伸をし、僕のそばにうずくまるばかりだった。
物理的に痛い思いをすれば涙が出るだろうかと思ったのだけれど、彼を利用しようとした僕の考えを察されてしまったらしい。ゆらゆらと尻尾を揺らして目を瞑ってしまった彼に小さく笑って、僕も彼のそばに寝そべった。
込み上げてくる希死念慮は、彼がそばにいることでどうにか打ち消されている。
「ほんと、君には助けられてばかりだよ」
ふわふわと柔らかい背を撫でると、彼はにゃあと鳴いてこちらへ顔を向けた。
カーテンを閉め切って日が差さない部屋。ものが少なく、生活感のない室内。テーブルの上に放置されたままの食器。
ふといたわるように彼が僕の手首をぺろりと舐めて、僕は小さく笑う。
「ん、大丈夫。もう痛くないから」
手首を横断するいくつもの細い線。彼がひどく心配するからやめたけれど、これは少し前まで僕自身が生きていることを確認し、僕自身へ呼吸することを許可するための行為だった。痛みを感じ、血液のぬくもりを感じるとひどく安心するのだ。──まぁ、跡は残ったものの、今は傷も治り痛みも全くないのだけれど。
「けど、そしたら僕はどうやって痛みを感じればいいんだろうね? 痛いってことは、生きてるってことだろう。で、こんなにこんなに苦しいのも、僕が傷付けばその傷口から出ていってくれるような……そんな気が、しない?」
幾分か呆れたような表情で、彼はふいと顔を背けて毛繕いを始めてしまう。
「うーん、そっか」
ひとりごちて、僕は彼の毛繕いをじっと眺める。念入りに念入りに手入れされていく毛並みに小さく笑って、それから目を閉じた。
『あんたは、生きてよ。』
今でもしっかりと覚えている。
どんな声をしていたか、どんな話し方をするか、少しずつ記憶は遠くなっていくけれど。
『無理だった。もう、耐えられないんだ。……だから、ごめん。全部あんたに、置いてく』
泣きそうに笑った、そのひとの表情を。
僕の袖を掴んだ、震える指先を。
ひどく冷えた、その体温と肌の感触を。
『大好きだ。──だから、あんたは生きてよ』
覚えている。
ずっと、ずっと。
『勝手でごめんな。先、行くわ』
最後、自分を縛り呪う全てから解放されたような、晴れやかなその表情を。
けれど全てに絶望したような、静かな瞳を。
覚えている。
「僕も連れてって欲しかったのに。ずるいよね、ほんと。ひとり置いてくなんて」
すべてを僕に置いて行ったそのひとは、けれど僕の涙は持って行ってしまったようだった。
──以来僕は、泣くことができない。
ぬるくなったコップの水をひと口飲んで、僕は自分の首に両手を添えた。
「ぅ、」
酸素が薄くなる感覚に、胸の底から言いようのない安堵感が込み上げる。
「────、」
両手を離して、笑った。
「あのひとが許してくれるまで、僕は、死ねないんだ。」
うにゃあ、と毛玉が鳴いた。
彼は、あのひとを失って空っぽになった僕のもとへ現れた救世主だった。ある日ふっと路上で出会って、野良のくせにとても人懐っこくて、気付けばうちまでついてきて勝手に上がり込んでいる。そしていつのまにか覚えたのか勝手知ったる様子で棚や冷蔵庫を漁り、食料を取る。
「君も物好きだよねえ。こんな暗い部屋じゃなくて、もっと暖かくて優しい人のところへ行けばいいのに」
そう言って彼の背を撫でれば、彼はぺしんとしっぽで僕を叩いてふいっとそっぽを向く。
「ごめんごめん。冗談だよ」
今では彼も、僕の生活の一部だ。
彼のおかげで僕は、かろうじて人間らしい生活を維持している。
「そばにいてくれて、ありがとう。」
囁くような小さな声で呟けば、んなぁお、と彼がひとつ鳴いた。
胸のわだかまりがほんの少し緩むのを感じて、僕は彼に擦り寄って息を吐く。
いつか、あのひとが許してくれるまで。
彼が僕の元を去る日まで。
僕はきっと、こうして呼吸する。
日の差さない小さな小さな、この部屋で。
最初のコメントを投稿しよう!