吉祥果

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 初めての結実は白いナスだった。いくつかの突起が本体に沿うように伸びている。ヘタの帽子がかわいい。さながらチューリップハットをかぶった人が気を付けの姿勢をしているみたいだ。  小安さんがお祝いに糠床を分けてくれた。茶色い小さな甕もつけてくれた。 「最初の子は感慨深いでしょう。すぐに食べられないようなら糠漬けにしておけば少しは日持ちするわよ」  糠の畑に白いナスをぐちゅりと埋め込む。庭の畑より色は明るいし、触感は水っぽいが、これもまた私たちの野菜を優しく包む土なのだ。かき混ぜると少しすっぱい匂いが立ち上る。  幼い日の夕暮れをふと思い出す。背後から宵闇が迫り、追われるように家路を急ぐ中で、砂利敷きの狭い路地から誰かの暮らしが漂ってくる。煮物の匂い、焼き魚の煙、食器のぶつかり合う音、テレビのコマーシャル、ただいまの声。笑い声、泣き声、怒鳴り声。糠床の甕の中に漬物を育む世界がある。  きっとこの子はいい糠漬けになる。知らぬ間にささくれができていたらしく、小指の爪の脇がピリピリと沁みる。  コウちゃんはまだ帰らない。  とっくに匂いのなくなったコウちゃんの枕を抱き締め、顔をうずめる。頭の先まで潜り込んだ布団は湿気を含んでずしりと重い。苦しさを耐えて深く息を吸い込んでいるうちにかすかにコウちゃんの匂いを嗅いだ気がした。ひとたびよみがえるとあとは家中どこで息をしてもコウちゃんの匂いに溢れていた。  私は浮き立つ心を抑えきれず、庭に飛び出した。  新たな実が生っていた。ピーマンだった。くるりんと丸まっている。折り曲げられた部分に皺が寄って寝顔のようになっている。  それは初めて見た胎児の映像を想起させた。しかし我ながら意外なことにあの頃の不快さはいっさいなく、ただひたすらに愛おしい。  優しく収穫し両手に包み込む。私の手の中ですやすやと眠るピーマンに頬ずりをすると、苦くも辛い緑の匂いがした。  私は堪らずにかぶりつく。前歯が控えめな抵抗を突き破って汁を飛ばし、頬にその飛沫がかかった。なんという心地よさ。もどかしい想いが満たされていく。ヘタも種も飲み込む。残すことなどできない。  いただきものの野菜とは大きく異なる私の――私とコウちゃんの畑で採れた野菜。私たちふたりの野菜。  食べきってしまうと急速に熱がひいていく。満足感と喪失感がない交ぜになった気怠さに私はその場に寝転がる。畑の土に頬寄せて自作の子守唄など歌ってみる。明日もいい子でおいしくなりましょ……。  最近、小安さんを見かけない。結構なお歳のようだったから、入院でもしているのかもしれない。  野菜たちはどうしているのだろうと思い、垣根の向こうを覗いてみたら、苗は一本残らずなくなっていた。  私の苗は一本きりなのに一度にたくさんの実をつけるようになった。初めの頃は一日一個だったから、成長した証なのだろう。  家はいよいよ物をかき分けても二階へ上がることができなくなった。私は目についた布製のもの――タオルやらのれんやら――をかき集めて畑の脇に積み上げた。この子の側を片時も離れないように。  ますます気温は下がり、夜明けまでが長い。夜中よりも日の出の直前が最も寒いのだと初めて知った。寒さのあまり眠ることもできず、頭の中が痺れたように膨張している感じがする。  それでもいくらかは微睡んでいるらしく、いつも気付けば枝いっぱいの野菜が生っているのだった。どれもが手足顔がついていて愛くるしいことこの上ない。齧り、吸い付き、垂れる汁をも舐め上げた。  いつもすべての実を食べ尽くしたところでようやくコウちゃんに残しておかなかったことに思い至る。どうしよう、ああ、でもまだ帰ってこないのだし。そんなことを思っては昼下がりの少し温まった畑に添い寝する。  浅い眠りを繰り返し、身体を起こす頃には薄紅色の夕日が差し込んでいる。空っ風が通り抜けるたび庭に溜まった枯葉の群れが動き回りザアザアと鳴る。  一羽のカラスがなにかの実を咥えて屋根へと飛んだ。私のところからその影は見えない。カツカツと足音が落ちてくる。立ち止まり時おりその場で足を踏みかえるような音がする。あの実を食べているのだろう。やがて完食して満たされたのか、カラスは赤ん坊のような声でひとしきり泣いた。    *  ひどく久しぶりに玄関チャイムが鳴る。 「ただいまー」  コウちゃんの声に苗の枝葉がはしゃいでフルフル揺れた。  もう一本苗があってもいいかもしれない。明日になったら新しい種を蒔こうか。コウちゃんに相談してみよう。  私は急いで玄関へと向かいながら声を張り上げる。 「おかえりなさーい」 了
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