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苗はすくすくと育っている。
コウちゃんはまだ帰ってこない。夜はコウちゃんの枕を抱き締めて眠る。もう眠りの匂いも薄れてきて、寝付くまでに時間がかかってしまう。
近頃はコウちゃんと苗のことばかり考えている。コウちゃんはきっと私の野菜をおいしそうに食べてくれる。小安さんみたいに立派なのは作れないかもしれないけれど、私とコウちゃんにとってはうちの野菜が一番おいしいに決まっている。その時を思い描くだけで口の中に唾液が溢れる。
コウちゃんがいない間は買い物にも出かけていない。私一人分の食事なら小安さんからいただく野菜で充分だからだ。出かけないから話す相手も小安さんしかいない。元々ほとんどご近所付き合いもないから、コウちゃんと小安さんのほかに口をきく機会もなかったのだけれど。
年末も近づき、朝晩はかなり冷える。私は苗が心配で仕方がない。気になって気になって夜中に目が覚めてしまうこともある。そんな時は庭に出てあの子がちゃんと立っているのを確かめる。そしてそのまま共に朝を迎えることも少なくなかった。小安さんはそんな私の身体を気遣いながらも、「その気持ち、よくわかるわぁ」と言ってくれる。
年が明けてもコウちゃんは帰らない。家の中にはもうコウちゃんの匂いはない。物足りない気もするけれど、他人の家の匂いも気にならなくなってきたから、まあいいかと思ったりもする。
私の――私とコウちゃんの野菜が実を付けた。どんな野菜が生るのだろう。まだ白っぽさの残る硬い塊が膨らんでいく様を思い描きながらじっと見つめる。いつまでだってこうしていられる気がする。
そんな私を見て小安さんが笑う。
「初めての時はみんなそうよ」
その言葉は私を不安から救う。
土を丁寧に耕し、種を埋めてふわふわの掛布団をかけるようにそっと土を被せた時の気持ちの昂りをなににたとえればいいだろう。並ぶものなどないほどに未来への期待と不安が湧き出て止まらない。
風は冷たいけれど空気が乾燥しているせいか、水をやればやるだけ吸い込んでいく。
「おなかがすいているのね。たくさんお飲み」
土の表面を優しく撫でる。触れた感触がないくらいに薄くやわらかな葉にそっと口づけをする。
実が生る前からこんなにも口に入れたくなるなんて。なにが生るのか、どんな味なのか、なにひとつわからないのに口の中はたちまち唾液でいっぱいになる。ああ、堪らない。早く食べたい。食べたい。食べたい。たべたい。たべたい。身体の芯が疼く。
電話のベルが鳴る。まただ。こんな毎日毎日急かすような音をこの子に聞かせていいものかしら。結実に影響が出ないとも限らない。不安要素は可能な限り取り除いておきたい。だってこの子は私とコウちゃんの大切な大切な――
電話のベルは一旦やんだものの、またすぐに鳴り始めた。
「ちょっと待っていてね」
苗に静かに声をかけ、イライラと家へ上がる。床が見えないほどに堆積物が溢れている。なにが隠れているかわかったものではないから土足で上がる。足でかき分けながら進む。タオル、ボックスティッシュ、空き缶、キャップの外れたペットボトル、駅前のスーパーのロゴが印刷されたレジ袋、急須、菜箸、コウちゃんのソックス、しみがついたコウちゃんのパジャマ。
「……はい、戸川です」
先方はコウちゃんの勤務先の上司だと名乗る。昨日までとは別の名前だ。
『戸川康介さんはいらっしゃいますでしょうか』
「おりません」
『いつ戻られますか?』
「あの、毎日ご連絡いただいているのですが、昨日までの方からお話を聞かれていないのですか? なんども電話をかけられても困るんですけど」
『うかがっております。ですからこうして……』
「本当に迷惑なんです! もうかけてこないでください!」
私は電源コードとケーブルを右手にぐるりと一周巻きつけてから力強く引き抜いた。プラグがコンセントから外れた勢いで目元に当たった。
「痛ーっ!」
急激に熱く粘度の高い塊が胸の奥に湧き、喉元を駆け上り頭頂に達した。視界が真っ赤に染まる。クリアな視界を確保するために私を取り巻く穢れたものを払いのける。大きく腕を振ると、コードの先についた電話機ごと部屋の反対側の壁へと飛んで行った。
少し歪んだざる。色褪せたのれん。食器棚の上のクッキー缶。テーブル。ソファ。ニスのはげた木製の状差し。サイドボードの足の下にかませた小さな厚紙。日に焼けた分厚いカーテン。掃出し窓の黒ずんだパッキン。錆の目立つ物干し台。土しか入っていない植木鉢。
すべて埋もれて見えない。他人の家の匂いも埋もれ。コウちゃんの匂いも埋もれ。
もう余所のうちなんかではない。私たちの家。築四十年以上の家はやわらかであたたかな膜となり、私たちを包み込む。
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