吉祥果

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   *  他人の家の匂いだ、と毎朝目覚めるたびに思う。  この家は新婚の住まいらしくない。あらゆるものが初々しさに欠けるのだ。家屋が築四十年以上になるということだけでなく、家具や食器、そのほかの雑多なものすべてが余所のうちに泊まっている気分にさせる。少し歪んだざる。色褪せたのれん。食器棚の上のクッキー缶。テーブル。ソファ。  ここはコウちゃんの実家だ。とはいえ両親と同居しているわけではない。お義父さんもお義母さんも健在だが、私たちの結婚が決まるとすぐにこの家を出て行き、中古マンションを購入して移り住んだ。  彼らのマンションは同じ中古とはいえ、木造一戸建てとは違い綺麗な部屋だ。もちろん前住人の影が残ることもない。住むところを与えてくれるつもりならそちらのマンションの方を譲ってほしかった。ここには私の知らないものが多すぎる。  八角形の壁時計を見上げる。コウちゃんを起こす時間だ。一足ごとに軋む階段を上がる。  寝室に入りカーテンをそっと開けると、差し込む朝日の眩しさにコウちゃんは掛布団にもぐり込んだ。胸の奥がぷるりんと震える。私は掛布団の端をめくると体を滑り込ませ、コウちゃんの首元に絡みつく眠りの匂いを嗅いだ。鼻腔に残る他人の家の匂いが薄れていく。  私の鼻息がくすぐったのだろう、コウちゃんが「こら」と笑いながら抱きついてきた。 「起こしに来たんじゃないのかよ」  起き上がったコウちゃんに引っ張り上げられて階下へと向かう。コウちゃんが顔を洗っている間に、私はトーストを焼きコーヒーを淹れる。テーブルに並べ終わると同時にコウちゃんが席に着く。  声を掛け合わなくても滑らかに重なり合う互いの動きがようやく身についてきた。これが共に暮らすということなのだと舌先で飴玉を転がすようにほんのりとした甘さを味わう。  コウちゃんはプロポーズの直後、ムードを壊すようなことを言うね、と前置きをして、子供はいらないと思うんだけどどうだろう、と問うた。私はそれで構わないと答えてキスをした。三十五歳になった私の出産へのリミットを気遣っての提言なのは明白だったし、その後の言葉に私は蕩けてしまったのだ。 「ユカちゃんを独り占めしたいから、とか言ったら笑う?」  照れくさそうに小声で尋ねる恋人に否と答えられるわけがない。こんな彼を独り占めできることに熱く震えた余韻は今もしっかり続いている。  コウちゃんが出かけた後はテレビをつけ情報番組を垂れ流しながら掃除や洗濯をする。  古い家だからダイニング以外の部屋はすべて和室だ。けれどもどの部屋もカーペットを敷いて洋室を装っている。一階にある居間なんて掃出し窓の内側に障子があるものだから奇妙な和洋折衷の部屋になっている。  カーペットを剥がして本来の和室として使うか、障子の代わりにカーテンをつけて洋室としてしまうか、どちらかにした方がいいような気がする。コウちゃんが帰ってきたら相談してみよう。  ガーガーと音ばかり元気で吸引力の弱い掃除機で薄くのされたカーペットを撫でるように掃除する。  ふと青臭い風が鼻先をかすめた。口の中に苦みが走る。けれどもけして不快ではなく、突如幼い日へと記憶を飛ばす心地よさがあった。  掃除機を止め、匂いを辿る。物干し台が置けるというだけの小さな庭の向こうからパチリパチリと音がする。縁側のサンダルをつっかけて生垣に寄ると緑の匂いが濃くなった。肩ほどの高さしかない生垣の向こう側に細い支柱が何本も立っている。どうやら家庭菜園のようだ。  この家に越してきて一ヶ月になるが、こちら側のお隣さんとは挨拶を済ませていなかったことを思い出した。隣家は我が家より古そうな二軒長屋で、いつも雨戸が閉まっていたのだ。  コウちゃんに聞いてみたが、現在誰が住んでいるのか知らないとの答えが返ってきた。コウちゃんも結婚を機にそれまで借りていたマンションを引き払って実家に戻ってきたのだから隣人を知らなくて当然かもしれない。 「あんなボロ家、もう誰も住んでないんじゃないの? ほら、あのうちの借家だし」  昔からの地主だという武家屋敷みたいに立派な門構えのお宅が大家だそうだ。なるほど、借家を遊ばせておく余裕があるお宅もあるのだ。  二軒長屋の外壁は灰色のトタンで覆われている。その灰色さえ斑になっているのはもう手入れをしていない証だろう。家屋の解体よりも放置を選んだのか、はたまた人が住まなくなった小さな借家のことなど些末なことなのか。いずれにせよ、あいさつの手間は省けた。そう思っていたのだった。
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