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第二話『阿頼耶識アリス』
「じゃあ、そうね。
阿頼耶識さんは、そこの男子の隣の空いてる席に座りなさい」
美人で綺麗な担任の先生はそう言うと、僕の方にその綺麗な指を刺した。
そう、僕の教室の担任は、美人の先生なのだ。
美人の教師。
霧島マヤ。
国語の先生で、古典古文を教えている美人の女性だ。
ただし、“年齢不詳”。霧島先生の“年齢”は誰も知らないのだそうだ。校長でさえも。
「檻噛君。
阿頼耶識さんに教科書を見せてあげてね?」
「・・・は、はあ。
え、あの。まじですか、ちょっと待ってください。
きっとそれは僕の隣の席ですか?なにかの間違いじゃないですか、先生」
僕は慌てながら呟いていた。
「なにを言っているの、檻噛君。
君の横しか席が空いていないじゃない。それにこんな美少女が横で嬉しいでしょう?」
美人の先生は、にっこりと微笑みながらそう言うと教室のみんなもくすくすと笑っていた。
「はあ、まあ、そうですけど・・・」
僕はしぶしぶ頷くしかなかった。
それも不幸なのか幸運なのか。
いや、もうすでに不幸でしかないが。
季節外れの転校生、阿頼耶識アリス。
かつて死んだはずの少女が、ゆっくりと近づいてくる。
ぎしぎし。
教室の床が軋む。
やめろ、やめろ。来るな。来るな。
僕は視線を合わさないようにしていた。
近付いてくる少女。
それにしても不思議と奇妙な少女だ。
綺麗で美しすぎて、まるで“人”ではない感じがする。
精巧な、“作りもの”のような。そんな、触ると壊れそうな硝子細工のような美しさ、儚い美貌。
そう、“彼女”は。まるで精巧に作られた“人形”のような少女だった。
アリス。
阿頼耶識アリス。
ねえ、あの時、君は。
死んだじゃないか。死んだはずじゃなかったの?
だって君は、僕が殺したじゃないか。
そう、僕が殺したも同然なんだ。
なのに、なぜ?
どうして、ここにいるの?
なぜ、君が僕の目の前にいるんだ?
なぜ、死んだはずの君がいるんだよ?
ねえ、君はダレなの?
君はナニモノなんだ?
オカシイ。おかしい。
なにかが、おかしい。
もどかしい記憶の奥にわだかまっている久しぶりの再会なのに。
ほら、見てよ。喜びで震えているじゃないか、僕の身体。
いやいや。
いや、違うだろう、この感覚は、これは”恐怖”。
畏れ、恐れ・・・。”畏怖”。
鳥肌。
振動。
足が。手が。体が震えている。
ガタッ。
っと、そうしているうちに転校生の美少女、阿頼耶識アリスが僕の隣に座った。
「・・・」
ごくりと唾を飲む。
ふわりと長い艶やかな黒髪が舞った。
恐怖に震えている僕を知らずに、少女の甘い甘い香りが鼻腔をくすぐる。
くらり。
甘美な媚薬入りの香水を嗅いだように、僕は朦朧とした。
それに、少女は夏だというのに汗ひとつかいていない、冷たい白蠟のような肌をしていた。
見蕩れていた。ほんの少し、僕は見惚れていた。
「・・・」
「・・・」
するとお互いに目が合った、合ってしまった。僕は慌てて目を反らした。
「ねえ、久しぶりだね」
そして君の魅惑的な微笑み。
「ノア。
・・・檻噛ノアくん」
少女は僕を視ていた。 ずっと目線は僕から外さない。
「あー、えっと、
あの・・・、阿頼耶識さんとどこかで会ったことあったのかな?」
僕はしどろもどろになりながら応えていた。
“嘘だ”。
咄嗟に、僕は嘘をついた。知らずに嘘をついていた。
やばい。かなりやばい。
なぜか。なぜなのか。わからないけれど、嘘をつかなければいけない気がした。
わかりきったような嘘を。
虚言を。戯言を。
すると少女はびっくりしてから少し寂しげな顔をして囁いた。
「・・・そう、
君はもう、憶えてないんだね・・・、“私”の事」
僕は、今でも泣きそな潤んだ目で、上目遣いで見上げてくる君の瞳に吸い寄せられそうになる。
「う、うん。ごめん・・・。し、知らない。
わからない。き、君の勘違いじゃないかな?阿頼耶識さん。他人の空似とか。
そ、それに僕のような似たような男なんか、いっぱいいるからさ」
嘘だ。
僕は手の震えを気付かれないように、手を握り締め。“嘘”をついた。
***
記憶。
遥か昔の記憶。
遥か昔といっても。僕がまだ少し幼い頃の記憶。
十年前。幼少時。
それは、僕らがまだなにも知らないわからない無知で幼い子供だった頃。
ふたりの子供。少年と少女。
断片的な記憶。
断罪的な記憶。
忘却したかった”思い出”。
それは失くそうとした記憶。
どろどろに、まどろんだ記憶の中。
断片的に、壊れた映写機に映し出された“フィルム”のように。
少しづつ過去の記憶が”復元“される。
***
そこは暗闇、闇の中。
少年は、ぽつんと佇んでいた。
少年の辺りには、炎。
炎々と燃え盛る炎。
火の海が広がっている。
轟々と焦がすような焼け付くような炎。
火。火。
何かが焼ける匂い。服も人も。
何かが燃える音。家も街も。
“世界“も、全て。燃えていた。
しくしく。
ひとりの少女が泣いていた。
しくしく。
それは“人形”のような少女。
アリス。
助けて。
泣いている君がいた。
助けて。
君が泣いている。
助けて、ノア。
ノア。
僕の名を呼び、泣き叫んでいる少女がそこにいた。
だけど、僕の手を掴んでいる少女のか細く小さな手は赤く、紅く、真っ赤に血塗れていた。
ねえ。
お願い、ノア。
手を離して。
そして、血塗れたまま少女は泣きながら微笑んでいた。
「ノアが手を離さないと、ふたり一緒に落ちちゃうから、ね・・・。だから。
この手を離して、お願いだよ」
少年は今にも落ちそうになる少女の手を掴んでいる。
少女の足下は、暗くなにも見えない暗黒の闇。
やだ。いやだ、いやだ。
アリス。
離さない。離さないよ。
死んでも離さないからね。
僕は叫んだ。
とは言え、子供の力は所詮子供でしかなく。
なにも鍛えてもない非力な子供なら尚更、少女ひとりすら持ち上げることなどできるはずもなかった。
アリス。
死んでも離さないよ。
だから、安心して。
僕が助けてあげる。
助けてあげるから、ね・・・。
ずるずると、剥がれていく血塗れの指。
やがて僕はその手を。
***
そこで、僕の“記憶”が途切れた。
くっ・・、うっ・・・。
頭蓋を万力で絞められるようにギシギシと頭痛がする。
胸を掻き毟るように吐気がする。
はぁ、はぁ、はぁ。
ああ、眩暈がする。
そう、かつての幼馴染の少女。
そう、かつての友達。
そう、かつて僕が好きだった君。
そう、かつて大好きだったアリス。
そして、僕の前からいなくなった。
いや、僕の前から忽然と消え去った君。
僕が消した、少女アリス。
記憶から消そうとした。
忌々しい禍々しい過去から。
アリスの名前も、存在自体も。
忘れたかったから、忘れ去りたかったんだ。
あの頃の僕には耐えられなかった。
まだ少年には重すぎたのだ。
あの日の、あの事件の、あの事象、あの記憶、あの世界。
僕だけがひとり助かった。
無様に生き残ってしまった。
だから、無意識に、唯識に。 阿頼耶識に。
君を避けていた。
避けなければなからなかった。
僕が正常でいられるように。
そして、僕の目の前にアリスがいる。
あの頃となにも変わらぬ人形のような美しい少女。
「ねえ、・・・ ノア」
真っ赤な、紅い赤い唇で囁きながら。
「お願い、違うと言って、ノア。
知らないだなんて、嘘だと言って」
泣きそうになりながら懇願する少女。
『ねえ、ノア』
アリスが僕の手を握ってくる。
つ、冷たっ。
そして、あの時と変わらずに君は、血塗れた少女の手は冷たかった。
死んでいるかのように、まるで“死体”のように冷たかった。
「あ、あははっ・・・、
もう嫌だなー。どうしたの?阿頼耶識さん。
なにかの勘違いだよ。
ぼ、僕は君なんか知らない・・・。な、なにも知らないよ・・・。
ア、アリスなんて名前も聞いたこともないし、なにかの見間違いだよ・・・」
ウソ。
うそつき。
嘘吐き。
嘘言。
戯言。
ああ、まただ。
また僕は眩暈がした。
だけど、その時の僕はちゃんと笑えていたのだろうか。
ねえ、アリス。
あの時、僕は泣いていなかったかい?
君を手離した時。
君を落とした時。
君を殺した時。
君を助けられなかった。
僕だけのうのうと生きている。生き残っている。
世界が暗闇に堕ちる。
ゆらゆらと視界が霞む。
僕は死んだはずの少女。阿頼耶識アリスと再会したんだ。
少女が視ている。
視線。
視界。
ずっと僕を見つめながら。
少女の瞳に写る自分の顔が視えた。
そこには悲壮な表情で絶望を抱えた愚かな少年が写っていた。
ぽたりと、頬を流れ落ちる涙。
その瞳の中の“愚者”は泣いていた。
悲しみなのか、喜びなのか、恐怖なのかは、わからない、ただただ涙を流していた。
そして、目の前が真っ暗になる。
暗くなっていく中、アリスがなにか言っていたが、僕にはなにも聞こえなかった。
暗転。
真っ暗闇。
そして、僕はそのまま気を失った。
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