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吉田郡山城から再びバスに乗り可部駅へ。
どのみち同じ電車なので、ちょっと寄り道して、まずは広島駅から反対方面のあき亀山駅に。
昔、この可部線は三段峡というところまで走っていたのですが、赤字のため可部駅から先が廃線となってしまいました。
しかし、可部周辺は宅地化が進んでおり、多数の需要が見込める事もあり、廃線区間の復活が地元から要望として出され、2017年にこのあき亀山駅まで1.6kmが復活しました。
じゃあ、さも混んでるのかといえば、まぁ、平日日中ですし、そこそこ。
ただ、可部地区の朝の通勤通学風景や渋滞を思うと、広島駅まで電車があること、逆に、沿線の学校までバスではなく電車で行けるメリットは大きい気がします。
さて、折り返しの電車で広島駅に。
そこから新幹線で少しで、三原駅に。
ホームから見える石垣に驚く人も多いでしょう。
ここは三原城の二の丸部分に駅が食い込んでいて、駅の案内表示に『天守台跡こちら』と表示があるほど!
新幹線ホームと、天守台跡の高さがほぼ同じですね。
もし天守が建っていれば、とてつもなく目立っていた事でしょう(三原城は天守台跡はあるが、天守は築かれていない)
この三原には、瀬戸内海と繋がった港もあり、昔は、満潮時には海に浮かんでるかのように見えたため、浮城とも呼ばれていたそうです。
駅の石垣以外にも、少し歩いたところにある公園に櫓跡があったり、街の中のそこかしこに遺構があるようですね。
築城は1567年頃から。小早川家により行われたとされます。
以前から水軍の砦を纏めたものが始まりとされ、三原要塞と言われていたそう。
1580年からは、本格的に城造りが始まり、およそ10年かけて、本格的な海城が姿をあらわします。
そして、時の当主は山城だった新高山城から三原城へと移り、本格的な運用を開始。
同時に、三原城近くの桜山には詰の城を築き、防御を万全にしました。
小早川家の城として発展しますが、秀吉に筑前を加増されると、養子として入っていた秀秋をそちらに、三原には隠居していた隆景が入りました。
このとき、石垣の石は、新高山城から運び出し、リユースしたとされています。
近くの軍港まで一体化した要塞に隆景は城を改造し、小早川家東の要害として整備したようです。
この三原城完成の喜びが、地元のやっさ踊りになったとされ、隆景の力の入れようが感じられます。
が、関ヶ原以後、安芸と備後は福島正則が入城。
福島正則自身は広島城に、三原には養子の正之が入ります。
この時代、港には10基の二重櫓が建ちますが、これは広島城の12基の二重櫓を模したとされます。
以後、城主が福島から紀伊和歌山の浅野が入り、幕末まで広島藩の支城としてとして陸路と海の監視を続けました。
その後、糸崎港の建設で石垣の大部分が使われてなくなってしまい、新幹線建設でさらに削られて今の姿に。そして、国道整備で海までも遠くなってしまいます。
しかし、それでも駅から数分でフェリーが発着する港に着くあたり、今なお、海の香りがするお城でした。
さて、こんな感じで中国大返し(鳥取から山口まで行ってのUターンという意味で)旅。
終わりは、最新鋭の新幹線たるN700Sが来て、初乗車となったことをお知らせして終わりとします。
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