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ホテルに戻り、軽く朝食を済ませたら、列車で次の駅に。
たまたま来たのは、石見神楽をラッピングした派手派手しい列車。
実は、山陰地域の列車は沿線自治体の補助金で製造されたものが多く、基本的に、車体は普通列車も特急列車も真四角。ちょっと、見た目にはあまり面白くないのが多いのですが、自治体が関与してる分、こういったPRラッピング車両は色々あるみたいです。
が、ここで気付いたことが!なんとカメラのバッテリーが残り僅かの表示!
スマホと違い、あまり充電しないので、完璧に忘れていました。
が、駅の観光案内所で無事にコンセントを借りられ、難を逃れました。
バスの時間まで余裕があったからいいものの、中々に危ないところでした。
さて、バスに乗ってやってきたのは月山富田城。日本五大山城にも数えられる、こちらも山陰の名城です。
今朝の米子城が江戸の設計ならば、こちらはバリバリに戦国期。鎌倉時代より少し前、保元か平治の頃と伝えられていますが、調査によれば、長寛から文治年間、ほんとに1192つくろう(この年号も古いのだけど……)の少し前です。
山下に御殿を構え、山上にお城。典型的な山城の構えですが、難攻不落と名高いお城で、攻め口は山下の3方向からに限定され、山下が陥落しても、中段に構えた山中御殿で迎え撃てるうえ、そこでだめでも、主郭である月山に登ることで籠城が可能でした。
一度も落城しなかった天下の名城です。
月山富田城が輝いたのは、尼子経久が城主となってから。
84才で没するまでに、山陰だけでなく、山陽の一部までを手中におさめましたが、続く孫義久の代、毛利家の麒麟児ともいえる元就に侵攻されると、籠城戦の末、ついに月山富田城を開城。
ここに、大名としての尼子氏は滅びを迎えます。
ただ、元就の儒の道に根ざした人道主義のためか、尼子氏が自害や処刑されることはなく、安芸円明寺に幽閉され、生涯を終えたとされます。
↓山中御殿
↓
山中御殿から山上への道のりである七曲り道の途中
↓山上
この巨大な山城は、1611年の松江城へ時の城主が入城するまで、現役であり続け、戦国時代の始まりから終わりまでの山陰の覇者ともいえる地位を護り続けた立派なお城でした。
実際、発掘された石垣などは、調査から関ヶ原以後のものとされており、廃城直前まで、改築を重ね続けた重要拠点と思われます。
現在はかなり整備がなされ、難所の七曲り道は樹脂で補強がなされているため、雨でも問題なく登れるようになっています。
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