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3日目
ホテルを7時にチェックアウトして、今日のお城へ。
集団登校の小学生に混じり、学校周辺を歩く私。
……不審者に思われてなければいいけども。
木戸神社から糸米川砂防公園へと抜けていきます。この辺、かなり奥地までアスファルト舗装されているので、かつてないほど足元は万全で歩きやすいのですが、傾斜が中々キツイ。
車なら10分ほどで抜けれるようですが、延々と30分ぐらい歩きます。
ちなみに、この道は、本来は電波塔のメンテナンスなどに使われる道だそうで、おそらく築城時にはなかったものでしょう。
途中の休憩スペースから。山口の朝です。
ようやく辿り着いた電波塔から、さらに急斜面を10分ほどで、高嶺城本丸です。
途中、岩盤そのまんまなとこもあり、滑りやすいとこもあるので、登る際は注意です。
大内氏の館の詰めの城として整備された山城で、築城は1556年から、大内義長により始まります。
が、その翌年、毛利氏が大内氏に猛攻を仕掛け、大内氏は未完成の高嶺城に籠らざるをえなくなります。
隙きをみて大内義長と重臣は城を捨てて長門国へと逃れますが、かの地で自害。
その後、お城は毛利氏が引き続き開発を進め完成させると、長州支配の拠点として君臨します。
が、なんと1569年、九州大友氏の支援を受けた大内輝弘が攻め立てます。
なお、この輝弘氏はかつての大内家から離反して大友氏に亡命状態。本筋が滅んだため、事実上の当主ともいえますが、既に重臣もなく、戦国大名の大内氏としては数えられない事も多いそうです。
さて、かつての支配者の血筋ということで、毛利に思うこともある遺臣が続々と寝返り山口県内を支配下におさめた大内輝弘氏は、高嶺城を猛攻。
守るは、城主市川経好の妻(夫は九州遠征中)
臨時のおんな城主の指揮の元、城は徹底抗戦。その間に、九州より反転してきた毛利軍に大内輝弘は敗北を悟り撤退しますが、九州への脱出困難とわかると、自害します。
これにより、将軍にも認められた大内氏は歴史から消え去りました。
この戦いで、毛利は北九州から撤退せざるを得なくなり、大友氏は毛利にとられた支配地を奪還しました。
なんというか、大友氏の狙いはそれかな?とか思ったりも。
皮肉な事に、元々の築城主を守らず、奪還に来た際には、その防御力に築城主の家系を追い返すという歴史を持ちます。
さて、肝心のお城ですが、石垣も用いた当時最新鋭のお城。
標高338mの鴻ノ峰にある山城で、主郭を中心に、四方に郭を持つ万全の構えです。
周辺には支城も多数あり、要衝山口支配の拠点として君臨します。
関ヶ原以後、毛利は萩を拠点とするよう幕府に命じられたため、この城は破却されますが、要衝山口城の詰の城として、施設は利用されたそう。
↓本丸付近
本丸から電波塔へ戻り、高嶺城の郭を降りてみます。
この辺から、中々にアドベンチャーな山道が姿を表します。
整備されてはいるものの、人によっては通行困難な箇所も。
が、郭の一番下にも電波塔の施設らしきものが。仕事で来るとしたら、めっちゃ大変そうです。
……ところで、道どこ?
ええ、ここで迷いました。いや、人工物が見えたので、ここから道があるかなとか思って降りたのですが、
え、いや、また登るとか困難な道がだったんですけども!!
が、事前に道があるはずなのは確認しているし、城の構造的にもないとおかしいので、色々探すと、なんとなくそれっぽい道?を発見。
これ幸いと、下山を開始します。
山口大神宮へと続いているはずの道がですが、
なのですが、
なんとも、まぁ、険しい(笑
いや、事前情報で中々にヤバいとは聞いていたものの、巡礼の道として活用されていたともあり、少し楽観視していたのもいけないのですが、まぁ、中々に、うん。雨だったら滑るし、滑ったら速攻で山岳レスキュー案件だよねという。
山口大神宮側は出城として整備されていたため、元々道はあったはずですが、廃城とともに崩れ、山口大神宮近くの一部だけが巡礼の道(道沿いに社があったり、岩戸があったりする)として利用されたのではと推測。
……ソロソロと降りていくと、朽ちかけた赤い鳥居が。稲荷社のようです。
そして、道もキレイに……
は、ならず!
多分、気合いがある人専用の巡礼の道と判断。こちらも、今更登るとか無理ゲーなので、気合いで降ります。
そして、なんとなく地上が近づいてきたなと思ったら、山口大神宮の裏に到着。
朝から足がガクガクですが、まずは参拝です。
整備された石段って素晴らしい!(笑
ここ山口大神宮は、本家の伊勢神宮まで参拝は中々行けないからと、1520年、時の大内氏が勧請したのが始まり。
西のお伊勢さんとして親しまれているそうです。
神社前にある川は、当然というかやはりというか、五十鈴川というそうで、伊勢神宮を再現しています。
今のように新幹線や自動車がない時代、近くに有り難い神社を作ってくれた時の大内氏は、さぞ領民に喜ばれたのではないかと思われます。
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