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多分、小綺麗なホテルの一室。全体的に暖色でまとめられ、調和の取れた部屋だ。半身を起こして、まだ働かない頭で周囲を眺め、分かったのはそれだけ。次に、清潔そうな寝台の上の、我が身を確認する。学ランを脱いで丸めて、ワイシャツやスラックスの裾をまくる。よかった、怪我も出血もない。そっと頭に手をやってみたけれども、痛む箇所もない。いたって健康そのものだ。ということは、つまり。暴力的な手段ではなしに、俺は、拉致されたということだ。
食べ物や飲み物の中に、睡眠薬でも入れられたのだろうか。でも、そんな危ない目に遭うような生活は、していないつもりだ。残っている最後の記憶は、全ての授業を終えて、学校を出て……。
とりあえず寝台から降りて、ご丁寧にも置かれていたスリッパを履く。自分のいる寝室スペースには小さなキャビネットと間接照明があり、壁には小さな絵が飾られている。それを横目に、地続きになっている、少し開けたスペースに足を踏み入れる。ガラスの丸テーブルに椅子、テレビの代わりに、大きな鏡台。そういえば、寝台の横にも、ラジオはなかった。
大きな窓にかかったカーテンを開けてみたが、すぐ隣の建物の外壁が迫っているだけで、何も見えない。人が落ちるだけの隙間もない。
「やっぱり、ホテルっぽいよなあ」
思わず呟いたとき、背後で「だよな」と声がした。思いっきり驚いて、肩が上がる。勢いよく振り返って見ると、そこにはクラスメートが立っていた。俺よりも数センチ低い身長、校則なんて知ったことじゃないと伸び放題の髪、特にそんな意図はないのだろうに、人を睨んでいるかのような三白眼。学ランも着崩しているから、本当に不良っぽく見える男子生徒、佐々コノミ。
「え、なんで……」
「知らね。お前が寝てた隣のベッドで、オレも寝かせられてたんだよ。先に起きたから、あちこち調べてた」
不機嫌そうな、若干高めの声。
「佐々君も拉致られた訳」
「やったのが誰だか知らねえけど、ふざけてやがる」
佐々が言いながら差し出したのは、一枚の封筒だった。白いだけのそれを開くと、中から一枚の紙切れが出てきた。
『ここは、二人で仲良くゲームをしなくては出られない部屋です。キャビネットの中に、さまざまなゲームを揃えておきました。ご自由にお使いください。お二人が仲良くゲームをしていることを確認したら、部屋のドアは開きます。なお、室内ダムウェーターにより料理をお届けいたします。お二人のペースでお過ごしになってください』
「確かに、ふざけてるな」
「な」
念のため、出入り口のドアを確かめる。内側からはどうやっても開かないようだ。
「全く迷惑だよな」
俺と佐々はひとまず椅子に座り、ため息をついた。こんな状況になってから思い出したのだが、最近、こういう馬鹿らしい悪戯、いや、犯罪が流行っているのだと聞いたことがあった。クラスの女子たちが騒いでいたのを、空耳で聞いていたのだ。しかし、指示自体はさして難しいものでもない。本当にそんなことで解放されるのであれば……。
そうは思うのだが、目の前で相変わらず不機嫌そうな佐々の顔を見ていると、なかなか決心がつかない。黙りこくっていると、佐々が痺れを切らしたように立ち上がった。
「あー、もう何でもいいから、とりあえずキャビネットの中身を見て、テキトーにやろうぜ。ここテレビがないから、カードゲームとかボードゲームとかか? 楽しそうって何すりゃいいのか知らんけど、まあ作り笑いでも何でもしときゃいいだろ。簡単なお題で助かったな」
佐々がテーブルに置いた細い腕の、ワイシャツの影から痣が覗いた。それを見て、ようやく心が決まった。余計なお世話かもしれないが、でも、知り合いが傷つくのを見過ごすのは、胸が痛い。
だから、俺は立ち上がらず、佐々に首を振った。
「やらなくていい」
「は」
佐々が、目を見開く。ただでさえ悪い目つきが、さらに悪くなる。長い髪の毛が逆立っているのではないかと思うような、そんな驚き方だった。
「やらなくていいよ、佐々君」
「いや、ちょっとゲームすりゃいいだけだろ。そんな変なこと要求されてる訳じゃないんだから、とっととやって、こんな所さっさとおさらばしようぜ」
「ねえ、佐々君。俺は、ここから出なくていいと思うんだよ」
佐々は呆れたように首を振って、寝室スペースの方へと向かった。俺が冗談を言っているとでも思っているのかもしれない。でも、これは冗談ではない。それを示すために、俺は佐々が持ってきたボードゲームに手をつけず、ただ、彼をじっと見つめた。佐々は苛々を体全体で表して、今度こそ本当に、俺のことを睨みつけている。
「お前、どっかおかしいんじゃないのか。実際に出られるかは分からねえけど、ただのゲームだぜ。試してみるくらいした方がいいだろ。出なくていいとか、何なんだよ」
ワケ分かんねえ、と唇を歪める佐々の、その無防備な腕を取る。驚いて引っ込めようとする、その力は弱々しい。思った通り、佐々は非力なのだ。見た目からは分からないけれど。
俺は、佐々の腕の痣を示した。
「これ、お父さんにつけられたんだろ」
腕に、力が入ったのが分かった。けれど、俺の方が力が強い。振り払わせずに、佐々の表情がこわばる。
「な、んでそれを」
「おかしいと思ったんだよ。体育のときも、夏でも、佐々君は絶対、長袖しか着ないだろ。誰も気にしてないみたいだったけど、それは、佐々君が誰とも仲良くしないし、気にされないようにしてるからだ。不良ぶってるのは、その方が誰とも接しなくていいから……家で暴力を振るわれてるってことを、知られなくて済むから」
俺の言葉は、途中で途切れた。佐々の拳が、頬を殴りつけたからだ。頭に血が昇ったからなのか、それは非力ではなかった。けれどもやはり、体格の問題だろう、軽い。口の中がちょっと切れて、血の味がする。
俺が放した腕をさすり、佐々は息荒く、再び拳を振り上げた。けれど、動きに無駄がありすぎる。俺はもう一度、その腕を制した。
「佐々君は、暴力なんて嫌いだろ。やめときなよ」
俺の言葉に息を呑み、佐々は顔を背けた。腕を放すと、今度はもう振り上げたりせずに、ただのろのろと、椅子に座った。肩を落として、諦め切ったように、長く息を吐いて、そのままの姿勢で呟くように言った。
「どうして、親父のせいだって思ったんだよ」
「……見ちゃったんだ。ほら、佐々君、よく学校休むだろ。先生がどうしてもその日じゅうに届けたいプリントがあるって言うから、俺、家も近いし届けましょうかって申し出たんだよ。そしたら」
ボロボロで小さなアパートの扉の前で、呼び出しブザーを鳴らそうとしたときだった。部屋の中から信じられないような怒号と、何かものが倒れるような音が響いてきたのだ。恐ろしくなって、でもどうしたらいいか分からなくて、玄関ドアの隣、ガラス窓からそっと中を覗いてみたら、小さな地獄が広がっていた。
五十がらみの大男が、発育し切っていない小柄な男子を組み敷いて、殴りつけていた。拳で、手近な物で。ガツンガツン、ボグンボグン、やめてやめて、ごめんなさい、おらお前は何を反抗的な、ドウッ、パリン、ジュウッ。喧嘩、ではなかった。それは一方的な蹂躙であり、ひたすらに暴力そのものだった。火のついたタバコや酒瓶、机の角というものは凶器でしかなく、必死で泣いて謝り続ける子供を、さらに傷つけるための道具でしかなかった。
室内には他に人影はなく、昼の三時なんて、周りの部屋の住人も出払っているのだろう。誰にも気が付かれないような、悪夢的な日常。
「でも、入って行ってそれを止めることもできなかった。……ごめん」
俺が謝ると、佐々の小さな口から、ひゅうっと息が漏れた。
「別に。助けて欲しいなんて頼んでねーもん」
佐々は、そこでようやく、顔を上げた。
「……まさか、それで、か」
机越しに身を乗り出して、ぽかんと口を開いて。佐々は、初めて見る動物に向けるような視線を、俺に向けた。
「それで、ゲームをしないって言ってるのか」
「うん。そうだよ」
佐々の表情が凍りつき、唇から、長い長い息が吐き出された。丸く開かれた目元が、泣き出しそうに震えた。
「ばっかじゃねえの。だって、それは、お前……」
机上に広げられたボードゲームの、人型の駒を、佐々は摘み上げた。陽気に笑う、男の駒。傍に立つ子供の駒の、父親だろう。
「そんなことしたらさ、お前が帰れないじゃん」
佐々の細い指が、そっと、駒を戻す。幸せそうな子供の傍に。
「まあ、そうなんだけどさ。……でも、俺が帰らなくても、誰も傷つかないし。家族は悲しむと思うけどさ。でも、死ぬわけじゃない」
「オレだって、死ぬわけじゃ」
「いや、死ぬよ」
俺の断言に、佐々は訝しげに眉をひそめた。でも、もう睨みつけるようなことはない。ただ不思議そうに、首を傾げるのみだ。
「なんでそんな、言い切れるんだよ」
俺は、場違いにも笑いそうになった。佐々は、自分自身のことを、何も分かっていないのだ。噛んで含めるように、俺はゆっくり言う。
「佐々君は優しすぎるから。あんな目にあっても、お父さんのことを憎めないんだろ」
佐々は、何も言わなかった。ただ、机上の駒を見つめている。
「だから、俺はゲームをしない。ここから出ない。クラスメートが……佐々君が死んでしまうと分かっているのに、出るなんてこと、できない」
佐々は、そのまま暫く黙っていたが、数分後、掠れた声で呟いた。
「お前、ばかだよ」
壁に掛けられた時計から夜がきたと判断して、俺と佐々はそれぞれの寝台に潜り込んだ。照明を消してすぐ、佐々の規則正しい寝息が聞こえてくる。ああ、ちゃんと生きている。佐々は、今、生きている。
目を閉じると、あの日、ガラス越しに見た地獄が浮かぶ。あのときの佐々は、生きていなかった。父親のストレスの捌け口になることを、甘んじて受け入れてしまっていた。それは、普段、教室で目にする尖った彼とは全然違っていて、俺はどうしようもなく、彼のために何かをしてやりたくなった。
このまま、出られなくていい。母さんや父さん、愛犬にもう会えないかもしれないのは寂しいけれど、でも、きっと慣れる。人間、何でも慣れだって、父さんもよく言ってる。きっと、このホテルの一室で、佐々とふたりきりの生活にも、慣れることができる。楽しく生きていける。
「ん……」
隣の寝台から、微かな声がした。佐々の細い声が、しきりに誰かに謝っているのが分かった。
「ごめんなさい……ごめん……」
俺はそっと寝台から降りて、闇に慣れた目で、佐々を見下ろした。その頬に伝う、水滴を拭う。
大丈夫。きっと、何とかなる。
暗闇の中で、佐々が微笑んだ、気がした。
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