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第五段
黒服の彼を追って、階段を駆け上がる。黒い背中が徐々に遠くなっていく。見失うわけにはいかない。今度こそ、あの人に追いつかないと。
彼の足音が消えた。扉を開ける音がする。もうすぐだ。
しばらく階段を上がった先に、真新しい扉が現れる。さっき聞こえた扉の音は、これか。きっと、この中にあの人がいる。
深く息を吸った。覚悟を決めろ。手に全身の力をこめて、扉を開け放った。
彼は白い空間に腰掛け、分厚い本を開いている。一呼吸おいた後、一言一句丁寧に音読した。まるで、小さい子どもに物語を語るように。
「留衣という少年は、白い森と呼ばれる小さな町に生まれた。
物心つく前に父親を亡くし、母親と二人暮らし。決して裕福ではなかったが、幸せに暮らしていた。
少年は、絵を描くことが好きだった。将来は画家になることを夢見て、毎日、絵を描いていた。その努力が報われ、大きなコンクールで金賞を取った。
しかし、それをよく思っていなかった一家がいた。町で一番お金持ちの大富豪一家である。
彼らは、留衣を困らせようと、ある噂を流した。『留衣は精神疾患者だ。あいつの絵を見たら、おかしくなるぞ』と。田舎なので、噂はあっという間に広がり、留衣親子はまともな生活が出来なくなってしまった。度重なるストレスで、母親は病気になる。
留衣少年は、母を追いつめた自分の絵に怒りを覚え、今まで描いてきた全ての絵を焼却炉で燃やした。
そして、少年の画家になりたいという夢は、自分の中に封印し、もう二度と絵を描かないと決めたのだった」
バタンと本を閉じる音が空間中に響いた。その瞬間、電流をうけたような衝撃が全身を支配する。
そうだ、全部思い出した。これは、僕が見ている夢。現実じゃない。長い階段を登り続け、宝石を磨いているうちに、ここが夢の中であることを忘れていた。本当は、本当の僕は、絵が好きだったんだ。だけど、母さんを不幸にした僕の絵が許せなくて。たったひとつの生きがいと夢を捨てた。
「思い出したみたいですね」
あの人の笑み。今までと違う、優しい笑顔だった。
彼の後ろが歪む。その中から、最後の階段が現れた。
「さあ、この階段を登れば、最上階。あなたが住む世界ですよ」
彼は、どうぞというように道をあける。穏やかな彼の表情を見て、俯いた。最上階に行くことを望んでいたはずなのに、その立場にたってみると自信がなくなる。そして、僕は気づいていた。この夢の真実を。
「・・・ひとつ、聞いてもいいですか?」
「はい」
「最上階、現実に戻ったら、ここでの記憶はなくなってしまうのですか?」
現実世界に戻れば、今度は夢の中の記憶がなくなってしまう。ここで出会った人、ここで見た景色、いろんな経験は、現実にもっていくことができない。それでは意味がないのではないか。僕は一体、なんのために旅をしてきたのだろう。
「・・・留衣、あなたは今、深い眠りについています。もうそろそろ目を覚まさなければなりません。あなたがいるべき場所は、ここではないのです。思い出してください。この世界でたくさんの絵を見てきたでしょう」
この世界で見てきた子供の絵。あれは、昔の僕が描いた自信作だった。
「きみの心が輝いていた頃、あの絵は生まれました。・・・わたしは、ルイ。現実世界のあなたが、私の存在を生み出したのです。私はあなたであり、あなたではない存在。・・・きっともうすぐ、私は役目を終えるでしょう。最期にあなたに伝えたいことがあります。ついてきてくれますか?」
しっかり頷く。
彼はこの空間の入り口の扉へ歩き出した。
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