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4 甘く柔らかいもの
幹久が保有する果実園には、温室特有のじっとりとした閉塞感がある。
換気という意味では人の体にあまりよくないのだろうが、植物にとっては楽園の環境だった。その日も、そこは果実が熟れて垂れ下がり、幹久が連れてきた美穂を喜ばせた。
「知らなかった。お兄ちゃんの会社の近くにこんなところがあったなんて」
子どものように手を広げてぐるりと辺りを見回して、美穂ははしゃいだ声を上げた。
美穂が背伸びして枝に触れ、葉をめくるその手の白さに目を細めながら、幹久もうなずく。
「俺も知らなかった。美穂が喜ぶなら、もっと早く連れてくればよかったな」
ここは幹久の代で保有した果実園だが、管理ははじめから地元の農家に任せていた。時々一人で散歩に来ることがあるくらいで、利益を出すより見て楽しむ程度のものに過ぎなかった。
だが美穂が気に入ったなら、これからは手を入れて整えるのもいいか。そんなことを思いながら、木々の間を遊ぶように歩く美穂を見守っていた。
ここに来るまでは車を出るのもおっくうな冬枯れの季節だった。温かな箱の中に美穂と二人きりでこもっているのは、体も心も満たされた。
肥料も土も使っているのに、それをかき消すほどの濃密な果実の匂いが満ちていた。幹久は美穂の隣に並んで言う。
「好きなだけ収穫していい。そのまま食べられる」
「売り物じゃないの?」
「出荷するには向かないんだ」
美穂が果実を見上げる目は不思議そうだった。至るところにたわわに実ったスモモは、赤く熟れて出荷間近に見えたのだろう。
「でもおいしい。……食べてごらん」
どこか悪いことに誘うような気分になりながら、幹久は美穂に言った。
美穂はひときわ大きな実を手に取ると、そろそろと口をつけた。
けれど美穂は昔からスモモが大好きで、食べ始めると夢中になる。口の周りも手も果汁で濡らしていくのを見て、幹久は彼女が幼いときを思い出していた。
まだ言葉もおぼつかない頃、彼女は両の手にも収まらないスモモを一生懸命食べていた。
そんなに手をべたべたにして、ほら、口の端からもこぼして。しょうがないな、拭いてやらないと……正常な兄の気持ちはそこまでで、それを食べる美穂の姿に目が釘付けになった。
蜜まみれの指、濡れた唇、恍惚とした目。うっとりと果物をかじる美穂自身が、たまらなく美味しそうな果実そのものに見えた。
かじったらどんな味がするのだろうと思った。思っただけでは終わらず、憑かれたように美穂を引き寄せていた。
あの日、幹久は蜜に汚れた彼女の指を口に含んだ。ひととき食んで、その甘さと柔らかさに酔った。
家族も使用人も目を離していたほんの短い間、美穂さえも覚えていない幹久だけの秘密。その時間に意識がしびれていたとき、美穂は果実から口を離して幹久を見た。
美穂はツタが木にからむように幹久の首に腕を回して、ねだるように幹久を見上げた。
「お兄ちゃんも食べて」
ここの果実は崩れやすく、出荷には向かない。きっと甘すぎるもの、柔らかすぎるものは、いつだって誰かが独り占めしていて市場には出てこない。
「そうするよ」
幹久は美穂を閉じ込めるように抱き寄せて、いつかのように甘い匂いのする唇をすすっていた。
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