1 ほどけないもの

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1 ほどけないもの

 赤ん坊だった美穂(みほ)の小さな指を手に包んだとき、幹久(みきひさ)は後悔した覚えがある。  父が再婚して生まれた妹は十五歳も年下で、それから始まった日々は彼女が可愛くて仕方がなかったのに、初めて触れたそのときに抱いたのはまぎれもない後悔だった。  そのとき、たぶん一生分後悔しておいたのだろう。美穂が中学に上がる頃には、幹久は自分の中の感情の正体に気づいていた。 「社長、ロビーにいらっしゃっていますが」  秘書が誰と名指しせずに伝えた言葉に、幹久は書類から顔を上げた。  それなりに急ぎの仕事ではあったが、優先順位というものがある。幹久はあっさりと書類を置いて席を立つと、事も無げに告げた。 「少し外す。そうだな……部屋を取っておいてくれ」 「かしこまりました」  幹久の何もかも曖昧な指示を秘書は承知して、わかっていたようにコートを差し出した。  会社の者たち、それは祖父の代から幹久を取り囲んできた組織の者たちでもある。真昼に秘書も連れずにどこかへ出ていく幹久に、彼らは何もかも知りながら会釈だけで見送った。  エレベーターを降りて一階、来客の待合場所も用意されているのに、美穂はいつもロビーの隅で所在なさげに立っている。 「美穂、どうした?」  幹久が表情を和らげて近づくと、美穂は申し訳なさそうに目を逸らして言った。 「ごめんなさい。お兄ちゃんの顔が見たかっただけで……すぐ行くから」 「遠慮しなくていい。秘書にもちゃんと伝えてあるんだから、中に入って来ていいんだ」  秘書どころか会社の者たちは残らず、美穂のことを知っている。事実を言うのは簡単だが、そのせいで彼女の足を遠のかせたくはない。 「コーヒーでも飲みに行くか。さ、おいで」  美穂の肩を抱いて、幹久は会社の外に連れ出した。地下駐車場に入って、先に美穂を車に乗せようとして彼女に袖を引かれる。  お兄ちゃんとぐずるような声で呼ばれた。たぶん少し泣いていた、その声が耳に入る前には唇が触れていた。  唇を合わせて舌をからめて、幹久の胸を自らの胸で愛撫する、美穂のキスは大人しい外見とは真逆の生々しさがある。兄妹同士のふざけあいと片付けるには、もうとうの昔に無理がきてしまっている。  近親相姦、幹久にも知識としてその言葉はある。けれど美穂のキスを受けたときにいつも抱くのは、今すぐこの体と深いところでつながりたいという欲求だけだった。  ただ幹久がその体を車に押し込んで欲求を果たす前に、美穂は目を覚ますようにあっけなく体を離して言うのだ。 「ごめんなさい。ありがとう。もう大丈夫」  簡単な言葉ばかりなのに、何もかも先ほどのキスの説明になっていない。幹久は文句の一つでも言っていいのだろうが、そのせいで彼女にその行為をやめてほしくはなかった。 「今夜、迎えに行く」  幹久がそれだけ告げると、美穂はうつむいて小さくうなずいた。  車の後部座席で美穂と手をつないで、通り過ぎていく街灯りを見ていた。  幹久と美穂がいつから普通の兄妹同士でなくなったか、考え始めると迷路に入っていく。  二人の父は法に触れる生業の男で、美穂の母は元々その愛人だった。再婚してからも美穂の母は被虐的なほど父に支配される生活をしていて、美穂も子どもときから極端に大人しい子だった。  会社は幹久が継いで美穂は外の小さな衣料店で働いているが、後ろ暗い金で生計を立てているのは同じだ。  幹久は美穂に振り向いてキスをする。そう、たぶん先にキスをしたのは幹久の方だった。細工物のようにすべすべした妹が可愛くて、額や頬に触れるうち、唇にも触れていた。  美穂は幹久の肩に触れてもっと深く口づける。確か、先に舌をからめたのは美穂の方だった。でもすぐに幹久も同じようにしていたから、美穂が悪いわけじゃない。  車がホテルの前に停まって、運転手が扉を開く。ここに来た回数は、もう数えるのをやめている。  キスだけなら悪いことじゃない。美穂の手を引いて車を降りる頃には、そう言い訳するのが馬鹿馬鹿しくなっている。  二人歩き始めれば、馴染みのドアマンが会釈して道を開く。一瞬感じた外気の寒さは、シャンデリアの灯りとこれから得られる熱への期待でかき消された。  秘書が手配してくれた部屋のキーを受け取って、美穂の手を取ったままエレベーターに乗る。上昇していく階表示を見ながら思う。  大きな変化くらいはあっただろう。たとえば一年前、美穂に恋人ができた。  エレベーターが停まって目的の階に下りると、じゅうたんを踏みしめて歩く。ちょうど一年前もそうだった。  美穂を泣かせた男が事故で死んだ、その翌日のことだった。 「お兄ちゃん」  扉の前で立ち止まって、美穂は依存のように幹久の腕に身を寄せる。 「触ってほしいの」  いつから自分たちが正常でなくなったかは知らないが、少なくともこの感情の正体は知っている。  幹久は笑って彼女の体を引き寄せると、カードキーを通した。 「愛してるよ、美穂」  無色の鎖で縛られているように、幹久と美穂は共に一歩を踏み出した。
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