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お誘い
瓶入りの水を喉がかわいたら飲もうと思ってもってきたけど、一口も飲まなかった。その瓶の水をハンカチにふりかけ、かれの肘の傷を丁寧に拭いた。
もう一枚ハンカチがあったら……。
とはいえ、ハンカチが二枚もあるわけがない。
仕方なく、シャツの裾部分をちぎり、その布切れをかれの肘に巻いた。
「も、申し訳ない。きみのシャツが……」
「いいんです。ほら、ちょっとみじかくなっただけでしょう?ぽってりしたお腹は隠せていますから」
笑いながらいうと、かれもにっこり笑った。
すでに陽は沈み、あたりは暗くなっている。
そんな薄暗さでも、かれの笑顔はかがやいている。
なぜか、その笑顔にドキッとしてしまった。
なぜか、その笑顔にわたしのなにかが救われた気がした。
「応急手当です。あとでちゃんと消毒してくださいね」
最後にもう一度かれの男前の顔をみてから、はなれようとした。
「ちょっとまって。馬をつかまえてくれたばかりか、傷の手当までしてもらって。きみは、どこに住んでいるんだい?ああ、不躾な質問だった。ぼくは、ナ、ナザル。ナザル……。そこの、そこの侯爵家で馬、馬丁をしている」
かれは、きゅうにしどろもどろになった。
「はじめまして。わたしは、ミナ。ミナ……。あるお屋敷で、メイド、そうメイドとして働いています」
そして、わたしもしどろもどろにいった。
なぜかこのとき、わたしはわたしの名を名乗っていた。
嘘じゃない。嘘じゃないけど……。しかも、メイフォード家とは名乗れなかった。王国中のだれでもがしっている、というわけではないけれど、侯爵様のところで馬丁をしているのなら、メイフォードの名をしっていてもおかしくはない。
しかも、このときなぜかメイドなんていってしまった。
どうしてメイフォード家の子女っていわなかった、いえ、いえなかったのかしら。
「ミナ、いい名だね。ぜひ、このお礼がしたい。また会えるかな?」
「ええ、もちろん」
初対面の男性に誘われるということも驚きだけど、それに即座に快諾したことにさらに驚いてしまった。
「明日、なんてどうだい?もっと早い時間、明るいうちに」
「ええ、わかりました」
「お茶の時間あたりはどうだい?とりあえずここで」
とんとん拍子に決まってしまった。
それから、かれと別れた。
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