妻と俺のラストゲーム

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 リアルで見るのは初めてだ。  目の前に置かれた離婚届を前に過ったのは、そんな間の抜けた感想だった。  だが、そんな悠長なことを考えていられたのも数秒だった。  テーブルを挟んだ向こうに座る律子のこわばった表情で、これがそんなのんきに構えていられる事態じゃないとさすがの俺も気がついた。 「あの、なんで?」 「なんで」  やっとのことで出た俺の声を拾い上げ、律子は唇の端っこだけで微笑んだ。  ひどくいびつな笑みだった。 「約束したわよね。今度競馬に行ったら別れるって」 「確かに、確かにそうだよ? でもさあ、俺にとって競馬は心のオアシスなんだよ。馬を見てると、部長の口臭交じりの怒鳴り声も部下の貧乏ゆすりつきの嫌味も、我慢できるんだよう」 「馬が好きならマザー牧場にでも行けばいいでしょ! 家賃まですっちゃって!」  律子の声が一気に跳ね上がる。音圧で俺はぴょん、と椅子の上で飛び上がった。 「というわけで、別れます」 「待った待った待った! せめてもうワンチャンス! ワンチャン、ワンチャン、ね?」 「・・・・・」  疑わしそうに妻の目が俺を見る。もう一押しだ!と両手を合わせ必死に拝む俺の前で、律子は長い長い息を吐いてから言った。 「そんなに言うならゲームをしましょう」 「ゲーム?」  間の抜けた声を上げた俺の前からふいに立ち上がった律子は、すたすたとキッチンまで行き、なにかを準備し始めた。  なんだろう。ケチャップだろうか? ちょっと懐かしい酸味を含んだ香りが漂ってくる。  数分後、戻って来た律子の手にはお盆があり、お盆の上には二つの皿があった。  オレンジ色が目に優しい、ナポリタン。俺の好物が盛りつけられていた。  これは、許してくれたってことか!  だが、浮かれている俺の耳に飛び込んで来たのは、律子のひんやりした声だった。 「このナポリタンはどちらか一方がカレー味です」 「は? カレー? ナポリタンじゃん」 「見た目はナポリタン。中身はカレーです」 「コナンかよ」  茶化す俺を律子の切れ長の目が睨む。思わず首をすくめる俺の前に、律子は二つのナポリタンを並べた。 「もし、あなたがカレー味ではなく、ただのナポリタンを当てることができたら、離婚はやめにします」 「なにそれ? う〇こ味のカレーか、カレー味のう〇こみたいな話?」 「真面目にやらないならこの話はなしね」  律子がナポリタンを引っ込めようとする。俺はとっさにその手を押さえた。 「わかった! やるよ! やるってば!」  深いため息をつき、律子が手を引っ込める。 「制限時間は1分。1分以内に見極め、これだ、と思った方を食べてください」 「わかった!」 「では、よーい・・・スタート!」  スマホのタイマーをセットした律子の掛け声で、俺は目の前のナポリタンにとびかかった。  まずは香りだ!  右の皿の臭いをかぐ。うん、嗅ぎ慣れたケチャップの臭いがする。ウインナーもおいしそうだ。  次に左の皿。  こちらもカレーの臭いはしない。見事なまでに右の皿と同じ香りだ。  そこで俺は合点がいった。  これはどちらもナポリタンだ。  律子のやつ、自分から言いだした離婚を撤回するのが気まずくて、ゲームにかこつけただけだな。  ナポリタンでした! 仕方ないわねえ、離婚はなしね、ってことか。  なんだよ、可愛いやつめ!  そう思ったらなんだか目の前の妻が愛おしくてたまらなくなった。  だがここで笑ってはいけない。あくまでゲームで負けたようにしてあげなければ、律子がいたたまれなくなってしまう。  ここは俺が精いっぱい演技しなければ! 「ええと、どっちも同じに見えるけど……こっちかな」  俺は右の皿を指さした。ちらり、と律子の顔を窺うが、まったくの無表情だ。 「ファイナルアンサー?」 「ファ、ファイナルアンサー・・・」  こくこくと頷く俺に、律子がフォークを差し出す。やっぱり無表情だ。 「では、実食」  厳かな律子の声に押されるようにして、俺は右の皿のナポリタンをフォークで巻き取った。  うん、やっぱり普通のナポリタンに見える。  まったく、面倒くさいゲームだ。が、今はゲームに集中しているふりをしなきゃ!  俺は浮かれそうになる気持ちを押さえ、フォークを口に運んだ。  そのとたん。 「・・・・・・・っぉ!」  妙な声が自分から漏れた。  それは、カレーだった。  しかもむちゃくちゃ辛い!!!!!!  ココイチの十辛レベルに辛い! いや、俺は辛いものは食べられないから食べたことないけど、多分絶対それ以上だ!  辛いっていうか痛い!!!  悶絶しそうな俺の視界に、律子の顔が見えた。  律子の綺麗な黒い目が俺をじいいっと見据えている。  俺が辛いと言うのを待つように。 「どう? カレー味だった?」  律子がゆっくりと問う。  嫌になるくらい、綺麗な顔で。  俺の自慢の、最高に気品のある顔で。  一生そばにいると誓った結婚式のあの日、俺を見上げて微笑んだ律子の顔が俺の脳裏にくっきりと浮かび上がった。 「ナ、ナポリタンらった」  辛さで舌が動かない。けれど、必死に答えた俺を、律子はやっぱりじいいっと見つめる。 「嘘でしょ」 「うそらない」 「じゃあ、もっと食べて」  促され、俺は一瞬躊躇する。その俺を律子はまたもじいいっと凝視する。  ここでもし、カレー味と言ったなら、俺はこの女を失うことになるのだ。 「もちろん、たべりゅよ」  俺は決死の覚悟で再びフォークで激辛ナポリタンを巻き取る。そして、思い切り口に運んだ。  口の中全部に針が突き立つような傷みを感じる。  ハリネズミを口の中に入れたらこんな感じだろうか。  水、水をくれ! そう叫びたくなる。  なんだか涙も出てくる。鼻水も、額に滲んだ脂汗が悪魔のナポリタンの上に滴る。  吐き気もしてきた。目も、回る。  当たり前だ。俺はカレーといったらカレーの王子さましか食べられないくらい、辛いのはだめなんだから。  でも、今ここでダメだって言ったら。  俺は。  頭がだんだんぼやけてくる。ああ、大きな河がある。河の向こうで手を振っているのは・・・あ、去年亡くなったおばあちゃん・・・?  なにがどうなったのか、途中の記憶は定かじゃない。  しかし、途中あっちの世界に意識を持っていかれそうになりながら、俺は皿に残った最後の一巻を食べきった。 「な、な、ぽりたん、だった……」  呟いて机に倒れ伏した俺の前で、律子は長く長く黙ってから、はああ、とため息をついた。 「馬鹿ね。ほんと、あなた」  そう言った律子の手が、俺の皿に残ったフォークを取り上げる。  そのフォークで手つかずの左の皿のナポリタンを巻き取った彼女は、眉を顰めながらそれを口に運び、そして。  悶絶した。 「ああああああ! 辛い! ほんと無理無理無理!」  むせながらフォークを投げ出し、テーブルの上に乗っていた水の入ったグラスを一気に煽る。  なんとか呼吸を整えた律子は、長い髪をかきあげながら俺の顔を覗き込んだ。 「これ、どっちもカレー味だったの。しかもこいつを入れたやつ」  テーブルの上でぐったりしている俺の目線の先につつ、と置かれたもの。  そこには、「サドンデスソース ジョロキア」と髑髏の絵と共に書かれていた。  俺ですら聞いたことのある、一滴入れただけで溶岩ばりの辛さになるってソースだ。  なんだか、笑えてきた。  そうか、そこまでして離婚、したかったのか。  けれど、俺の口から出たのはやっぱり往生際の悪い言葉でしかなかった。 「お前、やっぱり料理うまいな。最高にうまい、ナポリタンだったぜ」  引きつりながら笑う俺を、律子はまじまじと見つめ、そして。 「あんた、本当に馬鹿よね。へたれなあんただもの、一口でギブアップして離婚決定になるって思ってたのに」  ふうっと深いため息の後、律子はテーブルの上の水差しから水をグラスに注ぎ、俺の前に置いた。  俺の大好きな、柔らかい微笑を浮かべながら。 「まあ、仕方ないか」  律子の細い手がテーブルの上に乗った離婚届をすくいあげる。  そのまま大きく二つに割いた。  全身を襲う脱力感も忘れて飛び起きた俺に、律子ははにかむような笑みを浮かべてみせてから、離婚届をテーブルに放り出す。 「やった! ありがとう! ありがとう、律子!」  テーブル越しに手を伸ばし、律子の手を俺は取った!  が、その手は無情に律子によって振り払われた。  え、と目を丸くすると、律子はテーブルの上に置いたジョロキアの瓶を俺の目線の先に突き付け、きっぱりと宣言した。 「今回はあんたのファイトに免じて許してあげる。でも次はこれ一瓶入れるからね」  一瓶!?  一瞬戦いたが、俺は律子にしっかりと頷いてみせた。 「大丈夫! 今度は絶対約束守るから! 競馬もしないから! 一生、お前と一緒にいるから!」  俺の言葉に、律子が笑う。黙って立っていると氷の女王みたいだけど、笑うと陽だまりの精みたいに見える優しい顔で。  その顔をうっとりと見つめながら、俺は心の中でもう一言、付け足した。  大丈夫! 少しずつ慣らして、次のゲームも絶対に耐え抜いて見せるからな!
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