間違い電話

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間違い電話

 快速電車が轟音を上げ、目の前を通り過ぎて行く。  しかし、日々の生活により既に環境音と化したそれは、俺の耳には届いて来なかった。  駅のホーム。俺は電車を待っている。  時計の針は午後二十三時二十三分を差している。今日は久しぶりに電車が動いている時間に帰れる。と言っても家に帰ったところでやることなんてないのだが。  毎日遅くまで好きでもない仕事をして、燃料補給のように味気のない食事をして、ただ汚れを落とすだけにシャワーを浴びて、明日にギリギリ必要な体力だけを回復するためだけに眠る。  そんな味気のない、作り笑顔だらけの毎日が延々と続く。  いつから自然に笑えてないんだろう。俺はそう考えようとしてすぐにやめた。  きっと行き着く先は楽しい思い出。  思い出したところで虚しい気分になるのは目に見えていたからだ。  仕事の忙しさで、友人とは疎遠になった。恋人もいない。会社の人たちとはあまり折り合いがよくなく、飲み会にも顔を出さない。毎日人には会っているのに、孤独を感じる。誰かと“話をしたい”と思ってしまう。  何の為に生きているんだろう。 「寂しいな」  そう呟き、無意識に線路内の石を数えていた俺の頭に、そんな考えが浮かんだ時、腹の底に巣くう孤独感が、我が物顔で寄り添ってくる。  その時、胸ポケットの中のスマホが振動する。振動パターンからして電話のようだ。  恐らく取引先から、現在受け持っている案件の催促の電話だろう。サラリーマンには束の間の安息も許されないのだ。しかし、仕事があるだけマシだ。そう自分に言い聞かせた俺は、胸ポケットからスマホを取り出し、着信画面を見る。  知らない番号だった。取引先の担当者の番号は全て登録してある筈なのに、おかしいな。  そう感じながら俺は通話ボタンを押し、スマホを耳に押し当てる。 「はい、もしもし」  数秒の沈黙が流れる。 「もしもし? 聞こえてます?」  疲れと、こんな時間に電話をかけてくる図々しさに、声が自然と気色ばんでしまう。 「もしもし‥」  更に数秒の沈黙の後、電話口からはか細い女の声が聞こえてきた。その声音に、少し耳がこそばゆくなる。  その声は聞き覚えのない声だった。 「もしもし、どちら様ですか?」  聞き覚えのない声に、俺はその際に用意されている定型文を口に出す。 「あの、私、イケガミアカリと申します。初めまして」  初めまして、ということは、声や名前に聞き覚えがなくて当然か。俺は納得する。 「あの、こんな夜中に何か用ですか? それに、どこでこの番号を知ったんですか?」 「知ってません、それに、特別用もありません。だってこれ間違い電話ですから」 「ああ、間違い電話ですか。では失礼します」  仕事の催促じゃなくて良かった。と安心しながら俺はスマホを耳から離し、電話を切ろうとする。 「あ、あの、ちょっと待ってください」  電話口からイケガミアカリの焦った声が聞こえた。俺はうんざりしながらスマホを耳に戻す。 「まだなにか?」 「よかったら少しお話ししませんか?」 「え? だってこれ、間違い電話なんですよね? 他に話したい人がいたのでは?」 「いいえ、いません。強いて言えば貴方と話したかったんです」   俺はイケガミアカリの言っている意味がわからなかった。 「ダメ、ですか? 少しだけでいいんです」 イケガミアカリの言葉になんて返答しようか迷っていると、不安そうな声が追いかけてくる。 「まあ、少しならいいですけど」  正直、誰かと話したかった俺はイケガミアカリの提案を承諾する。それに、仕事関係じゃなければ、変に気を使う必要もない。俺は身体から緊張が解けていくのを感じる。 「いいんですか? やった」  電話口からイケガミアカリのはしゃいだ声がする。その声を訊いたとき、不意に耳がこそばゆく感じた。 「それで、なにを話すんですか?」  俺はゆっくりとホームのベンチに移動し、腰掛ける。 「そうですねぇ。じゃあ、ご趣味は?」 「ははっ、なんだそれ。まるでお見合いですね」  その質問に、俺は思わず吹き出してしまった。イケガミアカリも電話口の向こうでくすくすと笑う。  その時俺は、はたと気づく。  自然に笑えてる。作り笑いばかりの毎日で、普段使わない顔筋の痛みが、これが自然な笑顔だということを物語る。  それから俺たちは色々な話をした。好きな色、好きな食べ物、好きな音楽、好きな映画。  それはまるで子供同士が仲良くなるためにお互いを知るような話。そんな他愛のないことを俺たちは延々と話していた。  そこには恥も見栄も悪意も嫉妬も怒りも無く、ただお互いへの純粋な興味だけがあった。  傍を何本も電車が通り過ぎて行く。電車の走行音が耳の奥で反響する。  イケガミアカリの柔らかい声を聞く度に、心の中に沈澱している孤独が小さくなっていくのを感じる。こんな感覚は久しぶりだった。  時間が日付を跨ごうとしてる。最終電車の時間が迫る。 「はあ、楽しい。人と話すのってこんなに楽しかったんだ。忘れかけてたよ」 「大袈裟だな」  イケガミアカリの言葉に俺はそう返答する。  いつの間にかすっかり打ち解けた俺たちは、昔からの友達と話すような口調になっていた。 「いや、ホントだよ。ホントに‥‥最後にこんな話が出来て良かった」  イケガミアカリの声がワントーン下がる。 「最後? どういう意味だ?」  沈黙が降りてくる。  それは、電話越しでもわかるくらいの重い沈黙だった。 「‥‥私ね、これから死ぬのっ」  重い沈黙の後に、イケガミアカリから発されたのは想像だにしていなかった言葉だった。  そして、そう言う彼女の声は今日聞いた中で一番輝いているように感じた。 「は? え?」  突然の告白に俺は頭が混乱し、様々な言葉が喉の奥で停滞する。 「もうね、疲れちゃったの。仕事仕事の毎日で、将来も不安で、恋人も、頼れる人もいない。誰にも必要とされない。私なりに努力したけど何も手に入らなかった。そしたら生きてる意味がわかんなんくなっちゃった。だからもう全部終わりにするの」  俺はイケガミアカリの話を黙って聞いていた。 「でもこれから死ぬぞってときになったら急に誰かと話したくなっちゃって、スマホに適当に番号を打ち込んだら貴方に繋がったの」  イケガミアカリは楽しそうに、でも少しだけ悲しそうな声色で話し続ける。  それはまるで死ぬことを選んだ自分を無理矢理納得させるような声色だった。 「最後に貴方みたいないい人と話せてよかった。そういえばまだ名前を聞いてなかったね。貴方の名前は何て言うの?」  イケガミアカリが語り掛けてくる。  俺はそれには答えずに歩を進めた。 「もしもし? どうしたの? ねえ?」  沈黙に耐えられなくなったイケガミアカリの声が段々と焦りを帯びてくるが、すぐに落ち着きを取り戻した様子で話し始める。 「そっか。そうだよね。急にこんな話されても困るよね」  イケガミアカリの声が震えだす。 「ごめんね。話せて嬉しかった。さよなら‥‥」  唐突に電話が切れる。イケガミアカリは何を思っているのか。  俺はそう思いながらイケガミアカリの肩をたたいた。  イケガミアカリは大仰にビクつく反応を示して振り向いた。  その眼はうっすらと涙に濡れていた。  「あの、どちらさま、ですか?」  明らかに怯えた様子のイケガミアカリは、俺に向け、絞り出すようにそう言った。 「おいおい、さっきまで話していたのにその反応は傷つくな」  俺はイケガミアカリの警戒を解こうとわざと砕けた態度で言った。 「え? 貴方、電話の人? え? どうして?」 「気付かなかったか? 俺たちは同じ駅にいたんだぞ」  狼狽えるイケガミアカリに俺は冷静に説明をする。  そう、俺たちは偶然にも駅の反対側のホームにいた。  電話に反響する電車の走行音で随分前に気が付いていたが、声を掛けて不審がられても困ると思い、そのまま会話を続けていた。 「でも、今から電車に飛び込もうとしている女の子を放っておけるほど俺は大人じゃないからな」  俺はサムズアップで言った。 「何それ。ダサい‥‥」  イケガミアカリはそう言いながらも、口元を覆い、笑う。 「あと、イケガミさんは一つ思い違いをしているな。誰にも必要とされないって言ってたけどそれは違う。少なくとも今の俺には君が必要だよ」 「どういう事?」 「俺は君と話してて元気をもらった。君の優しい声に救われた。明日を頑張ろうって思った。誰にも必要とされないなんて、そんな寂しいこと言うなよ」  何も言わないイケガミアカリの頬に涙がつたう。涙で濡れ、彼女の眼は宝石のように透き通っていた。  その瞳を見て、俺は不覚にもときめいてしまった。 「えと、その、まあ、この間違い電話も何かの縁だ、今日死ぬのは延期ってことでいいんじゃないか?」  俺はしどろもどろになりながらも、なんとか思いを言葉に変換し、イケガミアカリに伝える。 「‥‥うん。貴方がそう言うなら、そうする」  俺は胸をなでおろす。成り行きではあるが、俺は人ひとりの命を救ったのだ。誇らしい気持ちが胸の中に広がる。 「ほんと言うとね、私も貴方と話していたら、貴方の声を聞いていたら、死ぬのが怖くなっちゃったんだ。もっと貴方と話していたい、この時間がもっと続けばいいのにって思っちゃった」  イケガミアカリは、眼からとめどなく流れる涙を拭いながら言う。  「なら、もっと話そう」  話題が尽きるまで。飽きるまで。君が死のうと思わなくなるまで。 「うん。ありがとう」  イケガミアカリは今日初めて見せる笑顔でそう答えた。その笑顔はとても人懐っこく魅力的な笑顔だった。 「ところで、イケガミさん。お腹は?」 「‥‥すいてる。今日朝から何も食べてない」  少し恥ずかしそうにイケガミアカリは自らのお腹をさすりながら言った。 「丁度良かった。俺も晩飯まだだったんだ。良かったら一緒にどう?」 「あはは、なにそれ。新手のナンパ?」 「いや、普通のナンパだ」  今更ながら自分の言葉と態度に照れた俺は、それを誤魔化すように頬を掻いた。 「喜んでご一緒させていただきます」  イケガミアカリが優しい笑顔でお辞儀をするのと同時に、最終電車がホームに滑り込んでくる。その時俺はイケガミアカリの質問を思い出す。 「そうだ、質問に答えるよ。俺の名前はーーー」  俺たちは最終電車に乗り込んだ。  了
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