オヤクメサマ

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「うーーーっ、うっ、うっ、おちんぽーー!はやくほしいよおーー!」 男は泣きながら自慰をしている。 泣きながら、笑っている。 笑っていながら、苦しんでいる。上気した頬は赤く染まっているが、その肉体の冠である脳は青ざめ、死に体なのだ。 だが、それこそがきっと彼にとっては一番の安寧である。 苦しんで生き地獄を味わうよりは、生きながらにして死んだほうがよい世界もあるのだろう。 なにが正しくて、何が間違っている。そんな議論はきっと彼の身に降りかかった現実においてはくそくらえなのだ。 彼はこうして色狂いになった方が、幸福だった。そんな世界を生きていたのだ。 「醜い生き物だと、思いませんか?」 私が呆然と井上康介らしき人物の痴態を見つめていると、洞穴の入り口から声がした。 見知った、声。 井上美和子だった。 彼女の背景には逢魔が時の空が広がっていて、薄暗くもあり、明るくもあった。 先ほどから私は……と自分で感じている事がある。 私がいるこの世界は相反している。 狂って幸福になった男がいて、明るくて暗い空がある。 そして、ただひたすらに美しい女性が立っていた。 彼女は笑顔だった。 手にはペットボトルのお茶と、手提げの紙袋を携えていた。 「井上君」 私が声をかけると彼女はぺこり、とお辞儀をした。まるで、車の中で私に催涙スプレーを吹きかけ、クロロホルム系のなにかを嗅がせたであろう女だとは思えなかった。大学で会う、清楚で大人しい女性に見えた。彼女は私にこう言った。 「お腹が減ったでしょう、ご飯、持ってきました。先生、お嫌いなものはありませんか?」 「井上君、君は」 「最後の晩餐だと思うので、味わって食べてくださいね」 にっこり。笑う女性に悪意の欠片もなかった。ただ、ただいつもの井上君のままだった。 私は観念してその場に座り、井上君からペットボトルのお茶が入った紙コップと、紙袋に入っていた素気のないタッパーに入った手作りの弁当を受け取った。どうせなら、何故こんなことをしたのかを知ってから死にたいと思ったのだ。暴れても仕方があるまい。それよりも、井上君から話が聞きたかった。おかかおにぎりに、からあげと、煮物、食べる気力はなかったが、食べる振りをしながらただ、彼女が喋り出すのを待っていると。 じゅっぽ、じゅっぽと張り型を出し入れして自慰をしている男を指さして、井上君は言った。 「醜いですよね。ほんと……久しぶりに見たけれど、犬みたいだわ。あれが私の父の成れの果てです」 「なんという事を言うんだね、お父さんに向かってそんなひどい……」 「だって、本当なんですもの。そしてね、せんせい。私があんな風に父をおかしくしたんですよ」 「なんだって」 彼女は父親のいる小屋には立ち入ろうとはしなかった。洞穴の壁にもたれかかり、紙袋から煙草を取り出した。慣れた手つきで煙草をくわえ、先端に火をつけて、吸う。煙を吐く。そして。 「あのね……。私が陽一君に髪留めをくれ、と言われた時のことを先生に話しましたよね……」 「ああ」 「私ね……大事な事を言わなかったんです」 「大事な事?」 「はい」 彼女は頷く。 「私が髪留めをくれろ、と言われて倒れた後、お父さんが真っ青になっていました。お母さんが私を抱きしめました。もう、陽一君には一人で会うなと言われました。どうしてだと思います……?ふふふ……。それはね……私がオヤクメサマに願いを言ってしまったんです。そしてね……叶いました。私は、美しくなりたい。とオヤクメサマに願ったんです。そして、その時に大事にしていた髪留めを見せました。陽一君、これ可愛いでしょう。私の大事な宝物なんだって言ってね。そしたら……手が、伸びて。私は記憶を失いました。起きた時にはね、この顔になっていたんですよ」 彼女の顔は確かに美しかった。 「私を探しに来たお父さんは、顔がすっかり変わった私を見て怯えました。でも、私は違いました。嬉しかった。お父さんもお母さんもそれなりの顔はしていたけど、平凡なんです。美しいとまではいかなかった。私は……綺麗になりたかったんです。絵本に出てくるお姫様みたい、なあんてロマンチックすぎるから言いやしませんけど、少なくともテレビの中に写るアイドル以上の顔になりたかった。だって、ずるいじゃないですか。顔の偏差値で男の人の態度……変わるから。先生だって私の顔、好きだったでしょ?いつも、私の顔や、胸、見てましたよね?」 「いや……その」 「いいんですよ、それが当たり前なんで。私、綺麗なんです。だって、随分犠牲にしましたから。いろんなもの。例えば……あれとか」 そう言って、もう一度父親がいる小屋を指さした。 「あの人の事、陽一君が好きだったの私知ってました。でも、陽一君の好き、はlikeの好きでした。ほんわかしてて……曖昧だった。お父さんだけが陽一君の事、優しくしてたから。お父さんに止められても私と陽一君は頻繁に会っていました。もちろん私は陽一君が利用価値があると思って会ってただけなんですけど、陽一君は私の事を親友だと思ってました。だから、言ったんです。「オヤクメサマなら、お父さんくらいもらってもいいじゃない。ずっと一緒にいればいいじゃない」そう言ってあげたんです。陽一君は最初驚いてましたけどね……会うたびに同じことを繰り返し言ってあげてたら段々その気になってきました。私、お父さんもお母さんも好きでしたけど、こんな村で一生過ごすの、御免だったんです。お母さんの実家がある東京に住んで、女の子らしい暮らしをしたかったんです。でも、お父さんがいたら絶対この村に住まなきゃいけないじゃないですか。だから、要らないって思いました。だから、あげたんです。私には必要ないから。必要のある人に恵んであげたんですよ。だけど、お母さんはお父さんを愛していたので、その愛をどうやって壊そうかって思いました。それで、思いついたんです」 彼女は息継ぎをする。美味しそうに、手慣れたように、煙を吸って、吐く。 美しい面影には毒がある。 彼女からは毒婦の香りがした。 「ぐっちゃぐちゃのどろどろの生ゴミみたいにお父さんを汚してしまえばお母さんだってお父さんを捨てちゃうんだろうな、って。だって、穢れって……そういうことですよね?せんせい」 「井上君……」 「ふふふ……ご飯、全然食べてないじゃないですか。大丈夫ですよ、毒なんか入ってませんから。先生にはまだ、やってもらうことがありますもん。そう……、お父さんみたいに用済みじゃないので」
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