オヤクメサマ

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私が村を出る発端になった話をします。 これは村を出てから、誰にも言った事はありませんし、母は八手村の事さえ口にしようとはしません。 もう、忘れたいんでしょう。 母は、父の事さえ忘れてしまえと言うんです。 戸籍の上では私達は家族です。 離婚というのは体裁が悪いから。そういって八手村の人たちは離婚を許してくれませんでした。多分、一生なんだと思います。 そしてそれは、枷、なんだと思います。 母と私を逃がさないように。 一度でもあの村で暮らしたら、もうそれは八手村の一員なんです。母は私に「ごめん」とよく言います。「変な村に嫁いでしまって、ごめんね」と言います。 でも、私は母と違って八手村の父の娘ですし、父と母が結婚しなければ私が生まれなかった訳ですから謝られても困る話です。私は父も、母も、大好きなんです。 八手村の人たちはことあるごとに連絡を取ってきます。不思議な事に、引っ越しを繰り返しても、電話を変えても、彼等は私達の居場所がすぐに解るみたいでした。 「美和子は八手村の人間だから。最終的には八手村に帰ってこなきゃならんのだ」 そう言うのです。 父は、陽一君の傍にいます。 そういう話も聞かされるのです。 陽一君を父親が【オヤクメサマ】と言うようになってから、私と陽一君は疎遠になりました。勿論、お正月の集まりや、お父さんと一緒に挨拶などで陽一君と会う事はありましたけれど、それ以外に彼と交流することはありませんでした。私は少し寂しいと思いましたが、それよりも、私は陽一君が差し述べた、握りしめられたあの掌、あの掌が開かれて何を見たか、というのを思い出そうとするたびに背筋がぞくりとする、この気持ちを恐怖と言うのだと本能で解っていました。だから、会えなくなって少しほっとしていたのです。 私が十三歳になった時。 ある夏の日のことです。 私とお母さんはお父さんを待っていました。時刻は夜の六時を少し過ぎていた頃だと思います。お父さんとお母さんは大井上家に勤めていましたが、お母さんは四時ごろには帰っていて、お父さんも五時くらいには帰宅しているはずでした。だから、夕食は6時ごろに皆で食べる。それが私達の日常でした。けれどその日、お父さんは六時になっても、七時になっても帰ってきませんでした。 「お父さん、帰ってこないね」 私がそう言うとお母さんは少し考えてから頷きました。 「ああ……多分、陽一様がお誕生日だからじゃないかしら」 「そうなの?」 「ええ。たしか、今日で18歳になられたのよ。お父さんは陽一様に気に入られているから、お祝いでもしているのでしょうね。先に食べていましょうか」 「うん!」 そう言ったやりとりを母としていた時です。玄関先で物音がしました。乱暴に家の扉が開けられて、鍵を閉める音がしました。私とお母さんは顔を見合わせてから「おかえりなさい」と言おうとした時です。お父さんが険しい顔をしながらリビングに入ってきて、「お前達!」と言いました。 「お前達!今すぐに荷造りをするんだ!この村を出るぞ!」 「ええ?どういうことなの?」 「いいから、早くしなさい!」 「待って、あなた……。とにかく落ち着いてください……。美和子も驚いているじゃありませんか……。大体ご飯だってあなたを待って食べていないんですよ?ほら……座って……お茶でもいれますから」 「あ……ああ……、すまん……だが……いや……そうだな……お茶をもらおうか……その間に美和子はご飯を済ませてしまいなさい。東京の……遊園地に行きたがっていただろう?連れていってやろう」 「えっ、ほんと?でも、明日は学校だよ」 「いいんだ、今日から皆で沢山遊ぼう。な?それで、落ち着いたら東京で暮らそう」 「うん!」 私は喜んで頷きました。私は両親が大好きだったから。 それにお父さんはその頃には陽一君のお付きの人みたいになっていて、私はなんだかお父さんを取られた気分になっていたので、お父さんが私とお母さんと沢山遊んでくれるという言葉に大喜びだったのです。私はお母さんにご飯をよそってもらい、お父さんは温かいお茶を飲みながら、ぽつりぽつりとお母さんに事情を説明しました。 「私が欲しい、とオヤクメサマが言ったんだ」 「ええ?どういうことなの?」 「それが……オヤクメサマがの18の誕生日を大井上家で祝っていたら、村の連中が「オヤクメサマも18ですから、嫁の一人ももらいませんとね」なんて言い出して……。オヤクメサマは何も言わなかった。私はそんな話はいいじゃないですか、と酒を飲んで盛り上がる男衆をなだめていたらな……。「私はこの男がほしい」とオヤクメサマが言われたんだ。私が振り返ると、オヤクメサマが私を指さしていて……笑っていたんだ。冗談を言っている素振りではなかった。私はなにを、と言った。「何を言っているんですか」と。だが、オヤクメサマはなにも言わなかった。ただ、私を指さしていた。そうすると村の連中が手を叩いて喜んだ。「オヤクメサマが欲しがった!吉兆じゃ、吉兆じゃ!」と……。冗談じゃない。なにを言っているんだと抗議してもみんな、笑い続けるだけで……」恐ろしかった。オヤクメサマだけではなく、村の連中も。恐ろしくて、恐ろしくて……、このままでは私はどうにかなってしまう。頼む、一緒に逃げてくれ」 お母さんにすがりつくように怯えるお父さんを私は見たことがありませんでした。お母さんは真剣なお父さんの様子に頷きました。 「解ったわ……。私の実家でしばらく暮らしましょう。大丈夫よ、なんとかなるわ」 「すまない……」 「いいのよ。さあ、そうとなったらあなたも少しはなにか食べてくださいな。夕食が終わったら荷造りをしますからね!」 「ああ……」 お父さんが少し、笑顔になった時です。 どーん、と太鼓の音がしました。祭りの時に使われる、太鼓の音です。 それから、「おめでとうございます!」と沢山の男達の声がしました。 「おめでとうございます!おめでたや、めでたや」 どーん、どーん……。太鼓が鳴るんです。 なにもない、平日の夜にです。カチャ、と玄関で鍵の開く音、それから、ふっ、と電気が消えました。 ブレーカーが落とされたのでしょう。私達はただ固まっていました。 怖かったんです。 「おめでとうございますーー!」 男達が押し入ってきました。玄関から灯りが見えます。蝋燭、懐中電灯。お父さんは椅子から立ち上がり、リビングの窓に駆け寄って、カーテンを一気に開けました。そこから逃げる気だったのでしょう。 でも、そこにも。 「おめでとうございますー!」 そう言って歯を見せて笑う男達が松明(たいまつ)を持って待ち構えていました。 お父さんは私達を見て、叫びました。 「逃げろ!」 でも、お母さんと私は解っていました。どこにも逃げられないじゃないかって。 お父さんは押し入ってくる男達に体当たりして私達を逃がす道を作ろうとしていましたが、そんなものは無駄でした。だって、男達はお父さんを捕まえにきたのでしたから。 「おめでたや、おめでたや。オヤクメサマがほしがられたぞ、ありがたい、ありがたい。そら、十八の祝いをあげるんだ、康介」 「いやだ、なにを言うんだ、ふざけるな私は男だぞ!」 「ええじゃないか、男でも、女でも。それとも、俺が言ってやろうか?代わりにお前の娘をオヤクメサマに……」 「やめろ!頼む、見逃してくれえ……!」 お父さんが数人の男達の手に捕まってしまいました。私とお母さんは、リビングの隅にあるソファーに座らされました。逆らう事なんてできませんでした。お父さんはあっという間に裸に剥かれてしまいました。そして、にこにこしている顔の男に「お清めだ」と言って手桶に入っている日本酒を頭から振りかけられ、白い着物を着せられました。まるで……時代劇のお侍さんが切腹する時に着る……あの白い着物のようでした。それで、ダイニングテーブルの上に乗っていた私達の夕食を乱暴に床に落としていきます。がちゃん、がちゃん、陶器の、ガラスのお皿が床に落ちると割れます。食べ物が破片と混じります。私とお母さんは何が起きているのか全く分からなくて二人で抱き合って震えていました。 ダイニングテーブルの上に何もなくなった所で、お父さんはそこへ運ばれました。両手は前で縛られていました。体格のいいお父さんがまるでこれから調理されるなにかの動物の様にも見えました。殺されてしまうんじゃないかって思って……私は泣きじゃくりました。すると、いつもは優しい隣の家のおじさんがにこにこしながら私の顔をぐいっとお父さんがいる方向へ固定して、私の耳元で囁きました。 「泣いてちゃ駄目じゃないか、美和子ちゃん。ちゃんと、見るんだよ。見て、ちゃんと解るんだよ」 「解る……?なにを……?」 「もう美和子ちゃんのパパはね。お前のパパじゃなくなっちゃうんだよ。オヤクメサマの女になるんだからね。未練なんか少しも残さないように、美和子ちゃんのパパがオヤクメサマにおまんこされるの、ちゃんと見ていようねえ」 そう言って下品な声で笑うのです。お母さんは静かに泣いていました。 お父さんは、いやだー、いやだー、と暴れていました。私の名前とお母さんの名前を交互に呼んで、逃がしてくれ、どこかへやってくれ、と狂ったように叫びました。 でも。
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