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第61話 神よ、俺の邪魔をするな
亮が意識を取り戻すと、目の前に一匹のゴキブリがいた。羽根を黒光りさせ、まるで亮の状態を診察でもするかのようにその長く伸びた触覚を上下にヒクヒクと動かしている。
——ここは……?
自分が今どこでなにをしているのかわからなかった。
「さっさと起きろよ、バカ野郎」
その声とともに腹部を蹴り上げられた。体がうつ伏せから仰向けになり、視界には仁王立ちするロークの姿が映る。それでようやく自分が今ロークとの戦いの最中であることを思い出した。
「まだやれるよな?」
「当たり前だ」
全身にズキズキと脈打つような痛みを感じながらゆっくりと立ちあがった。大丈夫だ。まだ体は動く。
またお互いに拳を構えた。ロークの前蹴り。亮は膝を上げてそれをガードをしてから相手に踏み込む。そこへ今度はフックが飛んでくる。亮は上半身を捻ってそれをギリギリのところでかわした。拳の風圧で前髪がぶわッと舞い上がり、鼻頭にはチリチリと焦げつくような痛みを感じた。
攻撃のチャンスだった。が、亮はバックステップで距離を取っていた。ロークの打撃の痛みを何度も体に叩き込まれたことで心に恐怖心が芽生えしまっていたのである。さらにジリジリと後退しながらリスクの少ない安全な戦法を考えた。しばらくして自分のその臆病な心にハッと気付き、自分自身を叱咤した。
——考えるな。臆病を捨てろ……。
地面を蹴って前に出た。襲いかかってくるロークの蹴りと拳。亮はそれを一発ずつ丁寧に捌いていく。頭で考えるまでもなく、体が勝手に動いていた。ただ信頼して委ねればよかったのだ。自分がこれまで積み重ねてきたものを、ただひたすらにサンドバッグを叩き続けたあの日々を……。
打撃の応酬が続いた。やがて亮のストレートパンチがロークの左腕をバチッと弾いた。ガードが開いた。
——今度こそ……。
その胸倉へ手を伸ばした。そのとき、視界の隅でなにかがヒュッと動いた。血が凍った。ロークの右肘。ぐしゃりとめり込んだ。
「ぐふッ」
ロークの首が後ろに反れた。亮は肘をもらうよりも先に相手の顔面に頭突きを見舞っていたのだ。
右手でロークのTシャツの胸倉を、左手で右腕を掴んだ。完全に柔道の投げの体勢に入った。が、そこであまりにもタイミング悪く亮の目元にゴキブリがバチッと飛んできて投げの動作が止まってしまった。ゴキブリはブォンと羽音を立てながら少しも悪びれることなく飛び去っていく。
ロークはその一瞬の隙を逃さなかった。亮の首に両腕をまわし、みぞおちに強烈な膝を叩き込んだ。
「かはあッ!」
亮は胃液を吐いて悶絶する。
——またか……。
湧きあがる怒りの感情とともに過去の記憶がフラッシュバックした。
「うちは無理だね。他を当たってよ」
その格闘技ジムのオーナーは両手に填めていたパンチングミットを外しながらにべもなく言った。
「どうしても無理ですか」
「無理だね。自分のしたことわかってる?」
「ええ、まあ……」
亮はそのジムをあとにすると、落胆と失望でへたり込んでしまった。所属していたジムの先輩をスパーリングで再起不能にしたことで破門になり、移籍先を求めて東京都内のジムを片っ端から当たっていた。が、全滅だった。
自分のしたことに後悔はなかった。誰にも媚びたくなかった。理不尽な暴力には屈したくなかった。が、その信念を貫いた結果として、亮の格闘家としての道はほぼ完全に閉ざされてしまった。
そこに感じたのは神の悪意だった。おまえに日の光を浴びさせてなるものか。一生惨めに底辺を這いつくばってろ。そう言って舌を出して笑われているような気分だった。だから、どんな状況であろうとも神に助けを求めたことなど一度もなかった。
——だけど、せめて……。
ロークの膝がさらにみぞおちにズドンと叩き込まれ、その衝撃が背中まで突き抜ける。それでも亮はロークを掴んだ両手を離さなかった。体を捻りながら相手の足に内側から自分の足をかけ、相手の体を真上に跳ねあげる。
「俺の邪魔をするんじゃあねえ!」
そして自分の内側に黒く澱んでいた怒りをすべて発散するようにしてロークを地面にバチンと叩きつけた。
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