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第2話 バンコクの夜
金子亮はさんざめく光と嬌声の渦の中にいた。オープンエアのカウンター席のみのバービアがひしめき合い、各店のネオンがピンク、紫、青……とそれぞれに異なる色を放っていた。それらは混じり合うことで仄かに淫靡な雰囲気を醸し出し、露出の多い格好をした店員や客の肌を含め、その空間全体をその色に染め上げている。そこからわずかに覗く夜空には窓にまばらに明かりの灯ったタワーマンションが聳えていた。
亮は白い小皿に盛られたピスタチオをひとつ摘み、右手だけでパキッと殻を割ってその実を口に放り込んだ。ピスタチオの風味とわずかな塩味。それを氷でよく冷やされたコーラで喉に流し込む。バービアは酒を飲むための店なのだが、彼はアルコールをほとんど受け付けない下戸体質だった。
「隣空いてる?」
亮の隣のスツールにひとりの女が腰を下ろした。黒のキャミソールを着た若い女。このあたりで客を取っている娼婦だろう。その胸元からは大きな乳房の谷間が覗いており、彼女はそれを見せつけるかのように亮に体を擦り寄せてくる。
「ひとりで来てるの?」
「ああ……」
亮は素っ気なく生返事だけして彼女から顔を背ける。誰かと話したい気分ではなかった。というより、彼が誰かと話したい気分になることなどほとんどなかったのだが……。
「日本人でしょ? 旅行で来てるの?」
彼はなにも答えない。
「すごい体してるのね。なにかスポーツでもやってるの?」
それにも彼はなにも答えない。が、女は構わずに亮の黒のTシャツの上から彼の上腕に触れてきてこう言った。
「すごく硬い。あそこもこれくらい硬いの?」
亮は苛つきを感じて女の手をバッと振り払った。
「ごめんね、冗談よ。ねえ、ところで、私と遊ばない?」
「……消えろ」
彼はようやく口を開いた。
「サービスするから。おっぱいに挟んだりとかもできるよ」
「消えろって言ってんだ!」
少し強めの口調でそう言うと、彼女はようやく身を引いた。
「なによ、このゲイ野郎」
そしてそう捨て台詞を吐いて立ち去っていった。亮はまたピスタチオの殻を破ってその実を口の中に放り込み、ふんッと鼻を鳴らした。
体を内側からじりじりと蝕んでいくような焦燥感。そしてどこにもぶつけようのない怒り。ひとりきり静かな部屋で過ごすよりも、どこか賑やかな場所に身を置いたほうがそれらの感情を紛らわすことができると思っていた。が、それは霧散するどころか、小さな台風のようにぐるぐると渦を巻いてその勢いを増していくばかりだった。
視界でぼんやりと揺れるネオンの青い光。それはびっしょりと汗をかいたコーラのグラスにも映し込まれている。亮はそのグラスを掴んでコーラを喉に流し込み、いっしょに口に入ってきた氷を奥歯でガリッと噛み砕いた。
外灯がひとつだけポツリと灯る暗い小道を歩いて自宅のアパートに向かった。奥に進むにつれて街の喧騒は遠のいていき、どこか遠くのほうから犬の遠吠えだけが聞こえてくる。その途中で尿意を催した。アパートまであと数百メートルのところまで来ていたのだが、電柱の陰で用を足してしまうことにした。
コンクリートの壁に向かってジョボジョボと勢いよく放尿した。
「ふうう……」
夜空を見上げると、周囲に薄く雲をたなびかせた満月が浮かんでいる。
ジャリ……。
後ろから足音が聞こえた。はじめは特に気にも留めずにいたのだが、どうやらそれは自分に向かって近づいてきているようだった。
ちらと後ろに振り向いた。バタフライナイフを構えた若い男がそこに立っていた。
「よう、兄さん。小便をしているところ悪いんだけどよ、ちょっとお金を貸してもらえないかな」
亮はそれでも構わずに放尿を続け、すべて出し切ったところでブルブルと小さく身震いした。
——ああ、久しぶりに人をぶん殴れる……。
そんな歓喜の震えだった。
「いくら貸してほしいんだ?」
「有り金ぜんぶだ」
「ああ、いくらでも貸してやるよ。俺に勝てたらな」
亮は男のほうに振り向いてそう言い、拳を前に構えた。Tシャツの上からでもはっきりとわかるほどに盛り上がった大胸筋や腕まわりの筋肉が外灯のぼんやりとした光の中に照らされる。
「あ、いや……」
男は亮のその立ち姿だけで自分と相手との戦力の差を悟ってしまったらしい、途端に怯えた表情になり、ナイフの刃を折りたたんで迷彩柄の短パンのポケットにしまった。
「どうした。お金を貸してほしいんだろ?」
亮はそう凄みを利かせながら男に迫る。
「いや、もう大丈夫ですので……」
男はそんなことを言いながらじりじりと後退していく。そして遂には反対側のコンクリートの壁まで相手を追い詰めた。
——違う。これじゃない……。
落胆が広がり、興奮も冷めていく。人をぶん殴りたかった。が、誰でもいいというわけではなかった。こちらを完全に舐め切って優越感の醜い笑みを浮かべた人間。そんな奴の顔面をボコボコにひしゃげるまでぶん殴りたかったのだ。それはセックスをも遥かに上回る快感だった。しかし、すでに戦意を喪失して怯えた表情を浮かべている相手を殴るのはまったく彼の趣味ではなかった。
「ほら、かかってこいよ。おまえから売ってきた喧嘩だろうが!」
「勘弁してください!」
男はそう言うと、壁を背にして地面にストンと尻餅をついた。
「クソが……」
亮はチッと舌打ちをして構えていた拳を下ろした。そのときだった。遠くからブロロロロとバイクの音が近づいてきたかと思うと、ジーンズの尻ポケットに入れていた財布がスッと一瞬にして抜き取られた。
「な……!」
すぐにバイクのほうに顔を向けた。オレンジ色のチョッキを着たバイクタクシーの運転手の後ろにカーキ色のミリタリージャケットを着た男が跨っており、彼の財布はその男の手に握られていた。亮は地面に座っている男のほうに向きなおって言った。
「やってくれたな。そういう作戦かよ」
「いや、違う! 違います。あの男は知らない。本当です!」
男は体を丸めて完全防御の姿勢をとる。その様子からすると、あのバイクの男とは本当に無関係のようである。
バイクはすでに暗闇の中にその姿を決しており、その赤いテールランプだけを小さくポツリと灯らせていた。が、それもやがてスッと消えた。
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