第3話 ソイ・カウボーイ

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第3話 ソイ・カウボーイ

 ゴーゴーバーの店内にカイリー・ミノーグの「キャント・ゲット・ユー・アウト・オブ・マイ・ヘッド」が流れていた。ベッドでまどろんでいるかのようなその甘く気怠いビートに合わせ、中央にハーレーダビッドソンのバイクの置かれたステージの上で七人の若い女が体を揺らしている。そのうち四人はビキニの水着を着用しているが、残り三人は全裸である。全面鏡張りで合わせ鏡になった店内の壁に彼女たちのそのあられもない姿が幾重にも反射して映し出されていた。  天井に取り付けられた器具からは赤や緑のレーザーライトが何本も放たれ、それが店内の薄暗い空間を縦横無尽に駆け巡っている。バイクの二本のマフラーにも反射し、そのメタリックな煌めきの中に緑色の閃光をシュッと走り抜けさせた。  チャニは女たちを間近に眺められるステージ際のカウンター席で小瓶のビールを飲んでいた。全裸の女がバイクのシートに横向きに腰掛けて彼に目配せする。そして手振りで隣に座ってもいいかと訊ねてきた。チャニはそれにうなずき、ビールをちびりと飲んだ。  しばらくして女がステージから下りてきて彼の隣のスツールに座った。 「私の名前はチョンプー。あなたは?」 「チャニだ」 「ふふッ、なにそれ。タイ人みたいな名前なのね。あなた日本人でしょ?」 「俺の国籍は別にどうだっていいだろ」  チャニはチョンプーの肩に腕をまわして抱き寄せ、その顔を間近に眺めた。小麦色の肌。眉毛にはなにも手を加えられておらず、その少し上で前髪がぱっつんに切り揃えられている。いかにも田舎から上京してきたばかりのような垢抜けない感じである。が、それが彼の好みだった。その豊満な乳房に手を伸ばそうとすると、彼女が言った。 「ドリンクもらってもいい?」 「もちろん。好きなだけ飲めよ」 「ありがとう」  チョンプーはワイ(合掌)をしてお礼を言ってから近くを通りかかった中年のウェイターにコーラを注文する。グラスに注がれて運ばれてきたコーラを彼女はストローで少しだけ飲み、すぐにカウンターに置いた。 「ねえ、ホテル行こう」 「いきなりだな。もう少しゆっくり飲ませてくれよ」 「ここはもう早く行きたいって言ってるよ」  彼女はそう言ってチャイの股間をカーゴパンツの上から優しく撫でる。それから彼の膝の上に彼と向かい合うようにして跨った。  チャイは目の前に来た彼女の乳房の谷間に顔を埋めた。柔らかな感触に包まれる。少し息苦しい。が、それすらも快感に感じた。しばらくその感触を堪能した。 「俺、死ぬときはこれがいいな」 「……え?」 「君のおっぱいに挟まれて窒息死すんの。最高の死に方じゃないか」  チョンプーは自分の乳房でチャニの顔を両側からぎゅっと挟み込み、彼の耳に口を近づけてこう囁く。 「ベッドの上で優しく殺してあげる」  そして彼の耳にふっと息を吹きかけた。それは彼の理性を埃のようにいとも簡単に吹き飛ばし、獣のような欲望を剥き出しにした。 「こ、こ、殺してくれえ!」  チャニはジャケットの胸ポケットに手を入れる。そこに鉄細工といっしょに剥き出しの千バーツ札が何枚も入っていた。ここまでバイクタクシーで来る途中で通りすがりの男から引ったくったお金である。財布にはカード類も何枚か入っていたが、それらには手をつけず、札だけを抜き取ってそこらへんに適当に捨てていた。 「ショート? それともオールナイトにする?」 「オールナイトで頼むわ。いくらだ?」 「うーん、そうねえ……」  そのとき、チョンプーの肩越しに黒いTシャツを着た男が店の入り口のカーテンを捲って入ってくるのが見えた。はあはあと肩で荒く呼吸しており、肩まで伸びた髪の毛で顔は隠されている。が、体の向きを変えてその顔がちらと見えた瞬間、チャニの全身の血がさあッと凍りついた。  ——あ、あいつ……。  その太い眉、そして空から地上の獲物を狙う鷹のような鋭い眼光。間違いなくチャニが財布を引ったくった男である。荒く呼吸し、顔にびっしょりと汗をかいているその様子からすると、ここまで走って追いかけてきたのだろうか。  男はチャニとステージを挟んで反対側をゆっくりと歩き、店内にいる客の男の顔をひとりずつ覗き込んでいく。チャニにはまだ気付いていない。が、このままでは見つかるのは時間の問題である。おそらく顔は覚えられていないだろうが、この特徴的なミリタリージャケットは間違いなく覚えられているはず。しかし、今、それを脱ぐ動作をすれば確実に怪しまれる。  ——どうする。どうする。どうする……? 「五千バーツでどう?」  チョンプーはチャニのその異変に気付くこともなく呑気にそう言ってくる。 「あ、ああ、五千バーツね……」  チャニは彼女のその言葉を適当に受け流してさらに思案する。チョンプーの腰にまわしていた手を自分の背中にまわした。カーゴパンツを締めるベルトの下に拳銃を隠していた。カタイから奪ったリボルバーの拳銃である。さすがにこんな場所で出すわけにはいかないが、それでもハンマーをカチッと起こしていつでも撃てる準備だけはする。  男はさらに店の奥に向かって進んでいった。チャニはその男の動きに合わせ、チョンプーを膝の上に乗せたままスツールをゆっくりと回転させる。彼女の体を盾にして自分の身を隠していたのだ。  やがて男は店のいちばん奥に到達した。そのとき、チャニは膝の上のチョンプーの体を投げ捨てるようにしてはね除け、店の入り口に向かって駆けた。カーテンに手をかけると、その向こう側に外のネオンの煌めきが見えた。それがヒュッと下方に流れた。  ジャケットの襟を掴まれて体ごと後ろに投げ飛ばされていたのだ。裸で踊る女たちの足にぶつかりながらステージをゴロゴロと転がり、バイクにぶつかって止まる。  顔を上げた。そこに殺意に満ちた二つの目があった。男が大きく振りかぶった拳をチャニに向かって振り下ろそうとしていた。 「うおおッ!」  パン!  反射的に発砲していた。 「きゃ———ッ!」  耳をつんざくような女たちの悲鳴。一瞬の静寂。すぐに店内に流れていた音楽が聴覚に戻ってくる。  立ち上がり、銃口をあちこちに向けながら周囲を見まわした。店内にいたすべての人は床に伏せるか物陰に隠れるかしており、そこにレーザーライトだけが飛び交っている。店内の合わせ鏡にはステージ上のチャニの姿が何人にも増殖して映されている。弾は男に当たっていない。どこかに隠れているはずである。  ——どこだ。どこにいる……?  ズン、ズン、ズン……と店内に流れる音楽が重低音のビートを刻む。それに共鳴するかのようにチャニの心拍数も上昇していった。拳銃を握る手もじわりと汗ばんでいく。  男の姿はどこにも見つからなかった。が、今のうちに逃げたほうがよさそうである。拳銃をまた背中側のベルトに挟んで隠し、店の外に飛び出した。  目の前の通りは妖艶なピンク色の光に包まれていた。ゴーゴーバーが軒を連ねる、バンコクでも有数の歓楽街、ソイ・カウボーイ。ビキニの水着やホットパンツなど露出の多い格好をした客引きの女で溢れており、その中を欧米系やアジア系など人種もさまざまな男たちが行き交っている。  その人込みをかき分けながら走った。途中、大柄の欧米人の男にぶつかり、手にしていたビールの小瓶が落ちてコンクリートの地面にクリームのような白い泡を広げる。  走りながらちらと後ろに振り返った。人込みの中に髪を振り乱して追ってくるあの男の姿があった。  ——なんなんだ、こいつ……。  苛立ちと恐怖、そして困惑が募っていく。拳銃を出されたら逃げるか、おとなしく服従するのが道理のはずではないか。それなのに丸腰で向かってくるとはいったいどういう神経をしているのか。 「頭おかしいのか。てめ———ッ!」  彼の財布を引ったくったことへの後悔の念も湧いてきた。チャニはお金ならそれなりに持っていたので、通りすがりの男のはした金を盗まなくてはならない必然性などほとんどなかった。が、目の前に盗める金目のものがあるならどうしても盗まずにはいられないというのが彼の性分だったのだ。  スクンビット通りとアソーク通りの二つの大通りが交わる交差点に出た。スクンビット通りと並行して高架鉄道の橋桁と歩道橋が架けられ、その向こう側で四角い窓をまばらに灯す数棟の高層ビルが真っ暗な夜空に向かって突き出している。  チャニは敢えてまだ信号の赤い、アソーク通りを跨ぐ横断歩道のほうに飛び込んだ。  ププ———ッ!  けたたましくクラクションが鳴らされ、火の玉のような無数のヘッドライトが彼に向かってくる。クルマのボンネットにぴょんと飛び乗り、その上をゴロゴロと転がって反対側の道路に着地した。そこをバイクに撥ねられて体がよろめくが、構わずに突き進んだ。  横断歩道を渡り切ったところでまた後ろに振り向いた。男はクルマとバイクの激流の中で立ち往生していた。少しだけ距離が開いていた。  スクンビット通り沿いの石畳の歩道をしばらく進んでいくと、また賑わいが出てくる。衣類、バッグ、腕時計、アクセサリー、絵画……などの露天がそれほど広くもない歩道の両側に並ぶようになった。 「どけ、どけ!」  そこを行き交う人々を払いのけながら走った。 「あ!」  石畳の出っ張りにつまづいて転んでしまった。そのままの勢いでゴロゴロと転がっていき、腕時計の露店の台の下に隠れた。 「はあ、はあ……」  隠れるところを見られただろうか。わからない。心臓がバクバクする。額から汗がポタリと落ちてカーゴパンツの生地に吸い込まれる。  彼の隠れている場所から見られるのは石畳だけだった。露店の裸電球の光に照らされた石畳の上に影を落としながらたくさんの人々が目の前を通り過ぎていく。固唾を飲んでそれを眺めた。 「おい」  ふいに声をかけられて心臓がドキリと跳ね上がった。 「あんた、ここでなにやってんだ」  そう言って台の下に顔を覗かせてきたのはこの露店の店主らしきインド系の男だった。 「別に……。なにもしてねえよ」  チャニは台の下からゆっくりと顔を出して周囲を確認する。男の姿はない。どうやらなんとか振り切ったようである。 「ふうう……」  緊張から解放されて大きく安堵のため息をついた。   どこかで少し休みたかった。喉もカラカラに乾いていた。ふらふらと歩いていると、客席のテーブルと椅子を歩道だけでなく車道にまではみ出させて営業している、クイッティアオという麺料理の屋台があった。そこのプラスチックの赤い椅子に腰を下ろした。 「ご注文は?」  緑色のエプロンをかけた男がやってきて訊いた。 「水をくれ」  そう注文すると、氷がぎっしりと詰められ、ストローのささったアルミのカップが運ばれてくる。テーブルの上のウォーターピッチャーでそれになみなみと水を注ぎ、ストローで一気に飲み干した。頭がキンと痛むが、全身の隅々にまで染み渡っていき冷たさに生き返った心地がする。 「ご注文は?」  店員が同じ質問を繰り返した。 「別にいらねえけど……。じゃあ、センミーの麺をナムトックで」 「後ろの兄さんは?」 「は? 後ろの兄さん?」  チャニは後ろに顔を振り向かせようとした。その瞬間、背後から彼の首にヒュッと腕がまわされる。 「うぐ、ぐ……」  喉を圧迫されて呼吸困難に陥る。必死に振り解こうとするが、その硬くて太い筋肉質の腕はビクともしない。気管だけでなく頸動脈も同時に締められていた。脳への血流が止められ、やがてパソコンの電源が落ちるかのように彼はコトリと失神した。
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