第62話 ペイルライダー

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第62話 ペイルライダー

「う……、ううう……」  ロークは体内の内臓すべてを叩き潰されたかのような激痛に声を漏らした。その痛みはじんじんと波紋のように体の隅々まで広がっていき、呼吸さえもままならなくなる。叩きつけられたのが土の地面だったのは不幸中の幸いだった。もしこれが硬いコンクリートだったら確実に終わっていただろう。  追撃に備えて早く起きあがろうとするが、体を動かせない。首だけをなんとか横に動かすと、地面に片膝をついてぜいぜいと荒く呼吸している亮の姿があった。みぞおちに放った膝が効いていたようである。  ロークもその間に体を休めることにした。ランタンの光のほとんど届かない暗い天井を見上げながら呼吸を整える。痛みは少しずつ引いていき、呼吸も楽になっていった。  ざッと亮の立ち上がる音が聞こえた。  ——来る……。  亮に見えない位置で左手を何度か開閉した。大丈夫だ。動く。  ロークは総合格闘技のリングにも何度も上がっていた。総合はムエタイと違い、倒されてもレフェリーに止められない限り試合は続行される。そのときのために磨いていた技があった。結局、総合でも一度も倒されることはなかったので使う機会はなかったのだが、それを使うときが来たようだ。  薄く開けた目で亮の足元だけを見た。一歩ずつゆっくりと近づいてくる。獲物が罠にかかるように、亮が無防備に射程圏内に入ってくるのを待った。  ——入った……!  両手と左足の三点で体を支えてヒュッときりもみ状に回転した。そしてその勢いのまま右足で蹴りを放った。が、スカッと空を切る。不発。  その足を地面につけたところで背中から掴まれた。体をぐるりと回転させられ、まるで十字架に磔にされたキリストのように両腕を開かされる。それと同時にTシャツの襟で首の頸動脈を絞められていた。おそらく柔道の絞め技なのだろうが、亮がいったいどんな体勢で技をかけているのかわからなかった。 「ぐ……、ぐぐ……」  脳への血流を遮断され、視界と意識が暗闇に侵食されていく。必死に振り解こうとするが、両足を無意味にバタバタさせることしかできない。  意識を落とされる前の最後の力を振り絞り、背中に貼り付いている亮ごと上半身を持ち上げた。そしてまた上半身を倒し、亮を地面に叩きつける……はずだった。地面に叩きつけられたのはローク自身の背中だった。  なにがどうなっているのかわからなかったが、とりあえず絞め技は解かれた。脳への血流が戻り、視界も徐々にクリアになっていく。ランタンの光。それに照らされて亮が鬼の形相を浮かべていた。ロークの体に馬乗りになっていた。  亮は振り上げた右の拳をぎゅッと握りしめる。ロークが咄嗟に両腕で顔面をガードしたところにその拳が振り落とされた。ビリビリと骨の髄まで響くような衝撃。その後も雨霰のようにパンチが振り下ろされた。ガードするのに精一杯でマウントポジションからの脱出を試みる暇などなかった。  痛みで両腕の感覚がなくなっていく。やがてガードをバチッと弾き飛ばされ、顔面ががら空きになった。  ——もういい。ここで終わりにしよう……。  ロークは死を覚悟した。  暗闇。  その中でなにかがきらきらと煌めいていた。午後の日差しを浴びて煌めくチャオプラヤ川の水面だった。  少年時代のロークがその川べりで蛙の玩具で遊んでいた。ポンプをぎゅッと握るとゴムで作られた蛙の足に空気が送られてぴょんと跳ねる。その動きがまるで本物の蛙のようでひとりでケタケタと笑っていた。川に落ちてもポンプで空気を送るとその川面を泳ぐ。それがおかしくてまた笑った。  あの頃はその日ご飯を食べるお金にも事欠くほど貧しかった。常に腹を空かせていた。それなのに毎日が楽しかった。幸せだった……。  亮の拳が目前に迫っていた。その刹那、脳裏にひとりの男の顔が浮かんだ。  ——親父……。
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