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碧子さんの独白 〜北国の冬・前編〜
碧子(みどりこ)さんは独身だ。こういう紹介をすると、今はセクシャルハラスメントだとか、差別だとか受け取る人も多いのだと思う。だけど、碧子さん自身が主張しているのだから、仕方がない。碧子さんは俺からするとまだまだ若いのだが、自分ではおばさんを名乗っている。しかも、中身はおじさんだと言ってきかないのだ。
碧子さんはきれいだ。こういう紹介をすると、俺が碧子さんに惚れているのではないかと勘ぐる人も多いのだと思う。実際、そうなのだ。何度もアプローチをかわされ続けて、現在に至る。俺は三つも年下だから、きっと年上好きの碧子さんの視界には入らないのだろう。
碧子さんと俺が住んでいるのは、築三十年になるクラシックな造りのアパートだ。もちろん、一緒に住んでいるわけではない。部屋は碧子さんが一階で、俺は二階。どちらも角部屋に当たるものの、位置は真逆になる。
碧子さんと俺は出勤時間と退勤時間が重なることが多く、顔を合わせれば挨拶を交わす程度の間柄だった。しかし、俺は碧子さんの存在が大きくならざるを得ない、決定的な瞬間を目撃してしまう。
ある雪の朝、アパートのゴミ置き場の前で、碧子さんは空に顔を向けたまま口を開けていた。ぱらぱらと舞う雪の花に埋もれた碧子さんが、とてつもなく眩しく見える。
「……おはようございます」
「おはようございます。見られちゃったかな?」
にたりと微笑む碧子さんは、切れ長の瞳で俺を睨んでいた。邪魔をするな、とでも言いたそうだ。
「何をしてたんですか?」
「食べてたの、雪を。下に落ちたらもう食べられないでしょう?」
北海道で生まれ育った俺は、小さい頃に新雪を頬張ったことが何度かある。しかし、環境破壊が進んでいると言われて久しい現代、雪を食べることは果たしていいことなのだろうか。
「あの、食べて大丈夫なんですか?」
「あまり良くはないでしょうね」
「じゃあ、どうして?」
「食べたかったから」
今度はにっこりと微笑んで、碧子さんが言う。
「雪の結晶が舌の上で溶ける、っていう感覚が甘美でしょう?」
「ああ、なるほど」
「わかってくれるの?」
「なんとなくですけど。味はどうですか?」
「美味しくもないけど、まずくもない、ってところ」
碧子さんの千鳥格子柄のコートから、細身のジーンズが覗いている。ベージュのムートンブーツは、つま先だけ色が違った。もしかしたら、どこかへ出かけてきたあとなのかもしれない。
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