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「うん、なに?」
「……キスしてほしい」
シュウさんに奥さんがいることも。自分が10歳も年下の子供であることも。そういうこと全てが頭の中から飛んでいた。しばらく鏡越しで見つめ合う。それが数秒にも数分にも感じられた後。鏡のなかからすっとシュウさんが消えた。
「え……」
気づいたら私のまえに立ったシュウさんは少し膝をまげて、直に私の目を覗き込んでいた。普段より色を濃くしたような瞳。男の人の目だとなぜか思った。見たことがない表情をしたシュウさんに、私の心臓は破裂しそうなほど早打ちを始めて。思わずごくんと息を飲んだ時だった
シュウさんがハッとしたような表情を浮かべ、それからいつものどこか困ったような笑みを浮かべた。そっと私の肩に手を置いて顔を近づける。それから大事なものに触れるようにそっと頬に口づけた。柔らかな唇が頬をすべる感触。背中が震えて思わず彼のシャツの裾を握りしめたら、顔をあげたシュウさんが笑った。
「マオちゃんの涙、甘いね」
耳元で響いたシュウさんの声のほうが余程甘いのに。私は首を振った。
「シュウさんがいちごみるく飴をなめたせいだよ」
天邪鬼な言い方。そのくせほんのすこし声が震えていた私を、シュウさんは優しく抱きしめた。それは男女の抱擁というより親愛の情をこめたハグだったかもしれない。
私も腕を彼の首にまわす。綺麗なうなじにようやく触れられた。私の指先がいとおしむようそこを撫でた瞬間、シュウさんは通電したみたいに小さく身体を震わせた。
彼の顔は見えなかった。吐息をつく気配。そのあとにささやき声が私の鼓膜を優しく震わせた。
「元気でね。……マオ」
出会ってから初めてそして最後に。シュウさんは私の名前を呼び捨てにした。
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