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それは、祝賀会の会場となる和室の準備に取りかかっていた時だった。
窓の外から、馬車の走る音がかすかに聞こえた。
軽快な蹄と車輪の音は、少しずつ近づいてくる。
やがて、どう、どう、と馬をなだめる声も聞こえてきた。
広間に飛び込んできた女中達が、目を輝かせて知らせた。
「みんな、泉里さまが帰っていらっしゃったって」
「さっき買い出しから戻ってくる時に、ちらっと見えたんだ。ますますかっこよくなられてたよ。あたし、惚れ惚れしちゃってさあ」
「本当!? やだ、あたしも見に行かなくちゃ」
「静かに! 騒ぐな! あんた達、浮かれてるんじゃないよ。まだ仕事は終わってないんだからね!」
にわかに色めき立った女中達を、女中頭が一喝して黙らせる。
それで、ひとまずはみんな、それぞれの仕事に戻ったものの……
女中頭が立ち去ってしまえば、もうかしましい女中達を黙らせる者など、誰もいなかった。
途端、あちこちでささやき声や笑い声が立ち始める。
漆塗りのお膳を並べながら、和沙が女中頭の口調をふざけて真似た。
「騒ぐな、浮かれてるんじゃないよ! ……とかなんとか、みんなには言っといてさぁ。おカツさんだって、絶対泉里さまを見に行ったに違いないんだから。ねえ、舞衣?」
「えっ! あっ……、和沙ちゃん? ええと……どうしたの?」
遅まきながらに声をかけられていたことに気づいて、舞衣は顔を上げる。
和沙はぱちくりと瞬きをした。
「どうしたの、って。それ、あたしが聞きたいくらいなんだけど。舞衣、あんた風邪でも引いた? 顔真っ赤よ」
「えっ!?」
言われてみれば、と頬に手を当てる。
本当だ……すごく、熱い。
指摘されてしまったことが恥ずかしくて、舞衣は思わず縮こまった。
(だって……。かっこよく、なられてた、って)
泉里の姿を、一目見たい。
その気持ちは、舞衣もみんなと同じだった。
それどころか、ここにいる誰よりも、舞衣が一番、そう強く思っているのではないかとさえ思う。
けれどその思いの強さゆえに、舞衣は少し不安になってもいた。
……もし。
もし、泉里があの日の約束など、少しも覚えていなかったとしたら――。
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