1.初恋

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「あ、の……。紺色の、布が……少し」 「ああ、このネクタイのことか? ……本当だな、結び目が変だ。どうやればいいんだったかな」  泉里はそれから、ネクタイを外してはまた結び、というのを繰り返していた。  だがやり直すたびに、結び目はますます崩れていくばかり。  泉里は困ったように笑う。 「だめだな。やればやるほどおかしくなっている気がする」  何度か泉里が結び直そうとするのを見て、それから、街で時おり見かける結び方を思い出して。  舞衣は何となく、ネクタイがどんな結び方になればいいのか、わかってきていた。 (どう、しよう……)  泉里に声をかけようか。 (でも、間違っていたら。それに、わたしなんかが、泉里さまにやり方を教える、だなんて……) 「舞衣」 「は、はい」  迷っているうちに名を呼ばれて返事をすると、泉里は結び目の乱れたネクタイを一瞥して苦笑し、舞衣に尋ねてきた。 「自分ではもうお手上げだ。お前はどうやればいいのか、わかるか?」 「……!」  どくん、と心臓が跳ねた。  どうしよう、どうしよう。  わからないと言った方がいいのか。  ……でも。 (でも、泉里さま……困ってらっしゃるのに)  震える指先をぎゅっと握る。  わからない、と言ってしまうことは、簡単だ。  ……だけど。 (泉里さまの、お役に立てるのかもしれないのなら……)    舞衣はようやく心を決めた。  か細く消え入りそうになる声を、必死に張り上げる。 「もしかしたら……、その。わかる、かもしれない……です」 「本当か?」 「あ、あの、でも……間違ってたら、ごめんなさい」 「構わないよ。それじゃあ、お願いできるか?」  おずおずと、舞衣は泉里の方へ足を踏み出した。    泉里の首にかかったネクタイを手に取ったところで、また心臓が跳ね始める。 「すまないな。手間をかけさせて」 「いっ、いえ……!」 (どうしよう……泉里さまが、近い……)  ネクタイを直すということは、自然と、至近距離で泉里と顔を合わせることになるわけで。  その距離の近さを思うたびに、頬が発火したように熱くなってくる。 (だめ……! 集中、しないと)    どうにか指先を動かして、しわになった結び目を、そっとほどいていく。  ネクタイを交差させ、片方の端をくるりと巻いて、できた輪にもう片方をくぐらせて。  最後に形を整えたところで、舞衣はほっと息をついた。 「でき……ました」  顔を上げることはできなかった。  だってきっと、今のわたしの顔は、目も当てられないくらい真っ赤になっている。 (……変な娘だと、思われたかしら)  けれど、身を縮こまらせていた舞衣に泉里がかけたのは、挙動不審な舞衣をいぶかしむような言葉ではなく。 「すごいな。たったの一度で、こんなにきれいに結べるものなのか」 「え、あっ……!?」  ぽん、と頭に手を置かれる。  そのまま泉里は、嬉しそうに笑って、舞衣の頭を撫で始めた。 「あ、あの、あの……、泉里さまっ……!」 「ありがとうな。お前がいてくれて、本当に助かった」 「……!」  舞衣は息をのみ、目を見開いた。  ――ありがとう、助かった、と。  そんなふうに、誰かにお礼を言われたのは、初めてだったから。 「お、おい。舞衣、どうした」 「……ご、ごめんな、さいっ……ごめんなさい……!」  我慢できなかった。  心の奥底を熱くして、目のふちからあふれて止まらないもの。  それはもう、悲しい涙ではなかった。    頬に温かな指先が触れる。  ゆがんだ視界の向こうで、泉里が舞衣の涙をぬぐってくれていた。 「謝らなくていい。ただ、どうして泣いているのか、教えてはもらえないか。俺はお前に、何かしてしまっただろうか」 「い、え。いいえっ……、違うんです。嬉しかったんです、わたし……。ありがとう、って……そう、言ってもらえたのが」 「……舞衣」  嬉しくて泣いたのなんて、生まれて初めてだった。  ますます目を泣きはらしてしまった舞衣に、泉里は優しく声をかけてくる。 「舞衣。お前はどうも、自分のことを見下げすぎているみたいだから言っておくが、お前はのろまでも、仕事ができないわけでもない。むしろ、働き者で、誰よりも一生懸命で、お前ほど仕事のできる者なんて、この邸にはいないと思う。だからもう、自分を責めるな。お前はもっと、自分に自信を持っていいんだ」 「でも……」 「まわりはそうは思っていないと? ならば皆、お前がうらやましくて、ひがんでいたんじゃないか? お前があんまりなんでもできて、自分にはまねできないものだから」  そう言って、泉里はいたずらっぽく笑った。  つられて、舞衣も少しだけ笑うことができた。
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