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「あ、の……。紺色の、布が……少し」
「ああ、このネクタイのことか? ……本当だな、結び目が変だ。どうやればいいんだったかな」
泉里はそれから、ネクタイを外してはまた結び、というのを繰り返していた。
だがやり直すたびに、結び目はますます崩れていくばかり。
泉里は困ったように笑う。
「だめだな。やればやるほどおかしくなっている気がする」
何度か泉里が結び直そうとするのを見て、それから、街で時おり見かける結び方を思い出して。
舞衣は何となく、ネクタイがどんな結び方になればいいのか、わかってきていた。
(どう、しよう……)
泉里に声をかけようか。
(でも、間違っていたら。それに、わたしなんかが、泉里さまにやり方を教える、だなんて……)
「舞衣」
「は、はい」
迷っているうちに名を呼ばれて返事をすると、泉里は結び目の乱れたネクタイを一瞥して苦笑し、舞衣に尋ねてきた。
「自分ではもうお手上げだ。お前はどうやればいいのか、わかるか?」
「……!」
どくん、と心臓が跳ねた。
どうしよう、どうしよう。
わからないと言った方がいいのか。
……でも。
(でも、泉里さま……困ってらっしゃるのに)
震える指先をぎゅっと握る。
わからない、と言ってしまうことは、簡単だ。
……だけど。
(泉里さまの、お役に立てるのかもしれないのなら……)
舞衣はようやく心を決めた。
か細く消え入りそうになる声を、必死に張り上げる。
「もしかしたら……、その。わかる、かもしれない……です」
「本当か?」
「あ、あの、でも……間違ってたら、ごめんなさい」
「構わないよ。それじゃあ、お願いできるか?」
おずおずと、舞衣は泉里の方へ足を踏み出した。
泉里の首にかかったネクタイを手に取ったところで、また心臓が跳ね始める。
「すまないな。手間をかけさせて」
「いっ、いえ……!」
(どうしよう……泉里さまが、近い……)
ネクタイを直すということは、自然と、至近距離で泉里と顔を合わせることになるわけで。
その距離の近さを思うたびに、頬が発火したように熱くなってくる。
(だめ……! 集中、しないと)
どうにか指先を動かして、しわになった結び目を、そっとほどいていく。
ネクタイを交差させ、片方の端をくるりと巻いて、できた輪にもう片方をくぐらせて。
最後に形を整えたところで、舞衣はほっと息をついた。
「でき……ました」
顔を上げることはできなかった。
だってきっと、今のわたしの顔は、目も当てられないくらい真っ赤になっている。
(……変な娘だと、思われたかしら)
けれど、身を縮こまらせていた舞衣に泉里がかけたのは、挙動不審な舞衣をいぶかしむような言葉ではなく。
「すごいな。たったの一度で、こんなにきれいに結べるものなのか」
「え、あっ……!?」
ぽん、と頭に手を置かれる。
そのまま泉里は、嬉しそうに笑って、舞衣の頭を撫で始めた。
「あ、あの、あの……、泉里さまっ……!」
「ありがとうな。お前がいてくれて、本当に助かった」
「……!」
舞衣は息をのみ、目を見開いた。
――ありがとう、助かった、と。
そんなふうに、誰かにお礼を言われたのは、初めてだったから。
「お、おい。舞衣、どうした」
「……ご、ごめんな、さいっ……ごめんなさい……!」
我慢できなかった。
心の奥底を熱くして、目のふちからあふれて止まらないもの。
それはもう、悲しい涙ではなかった。
頬に温かな指先が触れる。
ゆがんだ視界の向こうで、泉里が舞衣の涙をぬぐってくれていた。
「謝らなくていい。ただ、どうして泣いているのか、教えてはもらえないか。俺はお前に、何かしてしまっただろうか」
「い、え。いいえっ……、違うんです。嬉しかったんです、わたし……。ありがとう、って……そう、言ってもらえたのが」
「……舞衣」
嬉しくて泣いたのなんて、生まれて初めてだった。
ますます目を泣きはらしてしまった舞衣に、泉里は優しく声をかけてくる。
「舞衣。お前はどうも、自分のことを見下げすぎているみたいだから言っておくが、お前はのろまでも、仕事ができないわけでもない。むしろ、働き者で、誰よりも一生懸命で、お前ほど仕事のできる者なんて、この邸にはいないと思う。だからもう、自分を責めるな。お前はもっと、自分に自信を持っていいんだ」
「でも……」
「まわりはそうは思っていないと? ならば皆、お前がうらやましくて、ひがんでいたんじゃないか? お前があんまりなんでもできて、自分にはまねできないものだから」
そう言って、泉里はいたずらっぽく笑った。
つられて、舞衣も少しだけ笑うことができた。
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