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西暦2028年
「ねぇゆうちゃん。何か聞こえるよ?」
甘ったるい女の声が響いた。
夜中の11時、既にビルは消灯の時間を迎えており人影はない。
ビルを徘徊するのはビルの警備員である祐也だけ、のはずだ。
「スマホかなぁ?」
ブブブブ。ブブブブ。ブブブブ・・・
耳をすませば、何かの振動する音が聞こえてくる。
確かにスマホのバイブ音のようだ。
「生徒の忘れ物じゃないかなぁ? 」
ビルは階ごとに様々な会社のオフィス、店舗を有する複合ビルとなっていた。1階はコンビニや飲食店等、2階から4階は会社オフィス、6階から12階はマンションといった具合だ。そしてこの階、5階は予備校が借りていた。
「親の金だと思っていい気なもんだな」
真っ暗な闇の中を、一筋のライトが照らす。
ライトを持つのは40すぎの男。中肉中背。どこか生気の抜けたようなやる気のない顔をしている。
彼がゆうちゃんこと、出村裕也。
男の他に人影はないはずだが、女の声は続ける。
「トイレの方からみたい」
ライトを音のほうに向けると、確かにバイブ音はトイレの方から聞こえているようだった。ただし・・・
「こっちは女子トイレじゃないか? 」
裕也はいらだたし気にスマホを取り出した。
「おい、マーコ。勝手に入ってもいいのか? 」
「別にいいんじゃない? 」
スマホの中の女の子が笑いかける。
先ほどから裕也に声をかけていたのは彼女だった。警備会社の社内スマホにダウンロードされている電子人格。守子のマーコちゃんだ。
「誰も見てないんだし、はいっちゃえはいっちゃえ」
「お前が見ているだろうが・・・」
マーコは警備会社のスマホにダウンロードされた電子人格。つまり警備会社の回し者だ。彼女の見ているところで不正行為を働けば当然会社の知ることとなる。迂闊なことはできない。
「あのねぇ、ゆうちゃん。いちいち女子トイレに入ることを躊躇うガードマンなんていないよ? 心配性なんだから。むしろ女子トイレは見回らないっていうなら、そっちの方が問題なんじゃない?」
「そういうものなのか? 」
そういわれればそんな気もするが・・・
「前の会社だと女子トイレの見回りは女の仕事だったんだがな」
「そりゃあよっぽどお金に余裕があるところだったんだね。今の不景気じゃそんなところにさくお金はないよ」
電子人格が世知辛いことをいう。
「でもほらコンプライアンスとか最近厳しいじゃないか? 」
「いったいいつの時代の話をしてるのかなぁ? 私がいればちゃんと人がいない時に女子トイレを見回れるし、不正を見逃すこともない。男とか女とかどうでもいいんだよ」
電子人格の普及によりいろいろな人員が削減された。電子人格は人間より物覚えがよい、頭も良い。発想力こそ人間に及ばないものの、それを超えるのも時間の問題と言われている。さらにはネットを通じて様々な電子媒体とつながっている。
裕也はこうして警備員としてビルを見回っているが、見回るところに何があるのかは既にマーコによってチェックが終わっていた。マーコは監視カメラの映像を読み取っていてその情報を逐一把握しているのだから。裕也にいちいちそれを確認させるのは人間が見回ったという最終確認が欲しいからにすぎない。
「必要なのは安定して労働に従事できる健康な肉体だよ」
そんな電子人格だが唯一所有できないものがあった。それが人間の身体だ。頭の良い一部の人間以外は、彼らに勝てるのは単純な肉体労働のみといってよかった。
「いやな世の中になったものだな」
「ゆーちゃんは生真面目すぎだよ。前の社員さんなんてもっと超適当だったのに。外国人だったからっていうのもあるかもしれないけど」
そういうとマーコはケラケラと笑った。
「それって差別だろ? ヘイトスピーチってやつじゃないか?」
「ほんと古いなぁゆうちゃんは」
マーコはなおも面白そうに笑う。
「私たちは人間じゃないの。正しく客観的に物事を判断しているだけだよ。ゆうちゃんたち日本人は安価な労働力で高いモラルをもって仕事に当たれる優秀な種族として私たちの間では認識されているんだよ?」
「なんだその嫌な認識のされ方は・・・全く褒められてる気がしないんだが」
というか誰にそんな風に認識されているのか。警備会社か? 電子人格か? それとも日本政府か?
「でも最近はそのモラルも崩壊傾向にあるみたいだけどね。モラルを保っているのは教育の充実があって遺伝子に刻まれた傾向ではなかったってことかなぁ。あなたたち人間の愚かな指導者が自由だの平等だの下らなことをいって堕落への道を突き進んでいったから。人間たちは自分たちの優位性を正しく理解できていないんだよ。一つのことを実行するのに無駄が多すぎるもの。やっぱりこの世界は私たちが正しく導いていかないといけないんじゃない? 」
なんだか不穏なことを言い出す。
こいつら電子人格は人間を乗っ取ろうとでも考えているのか?
まさかそんな昔のSFみたいなことを本当に思っているとも思えないから、電子人格にそういう心配がされているということを理解した上でのブラックジョークだろうが・・・
どんどん話が脱線していくのでとっととスマホを回収することにした。
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