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「小牧さん、ちょっと。首元、自重して。いい歳してみっともない」 羽が生えたみたいに午前業務がスイスイ進み、課長代理で会議に出席して、会議室を出たところで隣の部署の新見(にいみ)課長に呼び止められた。何を言われているのかピンと来なくて戸惑っていると、 「あなたはもう少しちゃんとしてると思ってたわ」 汚いものを見る目で一瞥されて足音も荒く立ち去られた。 『いい歳してみっともない』 何のことだか分からないけれど、言われた言葉はそれなりに刺さる。 地味にズキズキする胸を押さえながら呼吸を整えていると、 「ま、気にすんな。俺は別にいいと思うよ。キスマーク」 目じりを優しく緩めた南条(なんじょう)さんが、自分の首筋を指さしながらこちらを見ていた。 「えっ、…ええ――――っ!?」 きっ、…キスマークぅううう?? ここ10年で、一番焦ったかもしれない。 自分の首筋を両手でつかんでおろおろしていると、 「気づいてなかったの? なんか今日艶々してるし、上機嫌だし、彼氏でもできたんだろうねってみんな言ってるけど」 南条さんが可笑しそうに近づいてきて、 「じゃあ、今日は髪降ろしとけば。で、昼行こうか。俺、事情聴取、言いつかってんだよね」 何でもないことのようにするりと器用に私の髪ゴムを外し、人差し指でくるくる回しながら職員食堂へ向かって歩き出した。 季生くん―――――っっ!!! そう言えば昨夜季生くんに噛みつかれたことを思い出した。けど、もう後の祭り。顔から火が出るってこのことか。脳内で悶絶しながら南条さんについて行く。この期に及んで他に出来ることは何もない。 「お薦めはA定食かな」 慣れた手つきで職員食堂の券売機を操作し、私の分も一緒に買って素早く空席も見つけてくれたスマートな南条さんこと南条拓海(なんじょうたくみ)さんは、新人時代に教育を担当してくれた頼れる先輩職員で、かの南条公親(なんじょうきみちか)議員のご子息でもある。庁内でも異例の出世を遂げるスーパーエリートであり、37歳にして部長職に就いている。 人当たりが良くて面倒見が良い彼は、教育担当時から今も変わらず多くの人に慕われており、男性が苦手で委縮している私にも気さくに声をかけてくれる。職場で普通に話すことが出来る数少ない、…ほとんど、唯一の男性職員である。 「へええ、セラピー彼氏。それはいいな」 事情聴取という名の世間話に、首の痕は突然押し掛けてきた弟がふざけて付けたんです、と正直に告げると、南条さんは穏やかに笑った。 「弟さん、やるね。そのくらい強引な方がゆりのちゃんにはいいのかもね。現に今日は絶好調じゃん?」 それはまあ、そう。 「…空気清浄機のせいじゃなかったんですね」 「え。何の話?」 南条さんお薦めのA定食「きのこご飯と鯖のから揚げ」は、驚くほど美味しかった。仕事の会食でもない限り、昼食はほとんど持ち込んで自席で済ませているから、職員食堂は新人時代数回利用しただけだ。昼食時はエレベータも混雑するし、一般のお客さんもいるし、一緒に食べる友だちもいないし。と敬遠してたけど、勿体なかったかもしれない。
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