one more. 2

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「こんな肩の力が抜けたゆりのちゃん、初めて見た。弟さんのおかげだと思うよ」 美味しいを連発して鯖を噛みしめる私に、南条さんが目元を緩ませた。 確かに。 今日は目覚めからずっと、とても気持ちが軽い。 書類の山も苦情電話も憂鬱な会議もまるで苦にならなかった。キスマークに気づかなかったのは悔やまれるけど、おかげで南条さんと昼食をご一緒する機会に恵まれたし、卑屈に閉じこもっているだけだった私が、食堂の美味しさに気づけた。 季生くんはすごい。 ずっと。 抱えていた荷物が重すぎて、押し潰されそうになっていたことにさえ気づいていなかった私に、簡単に手を差し伸べてくれた。誰かに分かってもらえるということが、こんなにも心を軽くしてくれるなんて知らなかった。 「…南条さん、さっきの話ですけど、io(イオ)くんの出演、何とか聞いてもらえませんかね」 そばを通りかかった職員が、南条さんに小声で話しかけてきた。 「あー、うん。探りを入れてはみるけど、難しそうだな」 聞こえてきた会話の端々から、彼は広報担当者で、省のイメージモデルに内定していたio(イオ)くんというモデルさんから、急遽、出演見合わせの連絡があり困っているらしいと分かった。io(イオ)くんは抜群のスタイルと清潔感ある容姿、小悪魔的魅力で若者に絶大な人気を誇っている。なんとか見合わせを回避したいらしい。 「南条さんの口利きで、どうか、お願いします」 「…まあ、期待しないで待ってて」 拝み倒すように頭を下げて、広報職員が去って行った。南条さんのように知名度のある人は、頼まれごとも多いんだな、と思った。 午後の業務は一転して、驚くほど長く感じた。 そういえば季生くんが突然家にやってきた理由をまだ聞いていない。 他に泊めてくれそうな人は沢山いるだろうに、どうして私の所に来たのか。 季生くんのことを考えるとそわそわして落ち着かない。いっそ有休をとって帰ろうかとも思ったけど、外せない来客の予定があって断念した。お客さんが帰られると、速攻で帰り支度を始め、終業時間と共に誰よりも早くフロアを後にした。 「え、…小牧課長代理、もう帰るの?」 「なに? 出張??」 振り向かずに走る。 仕事は山積みだけど、全て明日の私が片付ける。 ダッシュで地下鉄に飛び乗り、乗り換えの駅構内を走り、階段を駆け上がる。外は小雨がちらついていたけれど、猛然と走った。 「季生くん、ただいまっ! いる!? いるよねっ!!」 自宅の玄関ドアをこんなに勢い良く開けたのはいつぶりだろう。 「…季生くんっ!?」 「おかえり、ゆりの」 息せき切って駆け込んだら、奥の部屋から季生くんが迎えに出てきてくれて、なんだか涙が出そうになった。 …良かった。居た。 「どうした? そんな慌てて」 季生くんが私の髪に指を差し込んで小首を傾げる。 「…濡れてんな。風呂入る? 飯? それとも俺にする?」 差し込まれた手に引き寄せられて、季生くんの腕の中に収まる。 季生くんの温もりが沁みて、新婚コントみたいなセリフに上手く反応できない。季生くんが居てくれて嬉しい。
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