one more. 6

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「父さん。本当に危険はないんですよね。彼女は無関係な一般人で、恐らく何の事情も知らないんです」 「分かっているさ。彼女を危険にさらすつもりはない。誤解しているようだが、我々の提案は彼が唯一生き延びられる方法だ。全て彼のためなんだ。我々だってみすみす羽人(はねびと)を死なせたくないからな」 話し声がする。 男性の少し興奮したような声とそれをなだめるような重みのある声。他にも何人か、人の気配がする。冷たいコンクリートの匂い。理科室のような薬の匂い。何か機械が作動している音。遠くを行きかう靴音。ドアを開閉する音。エレベーターの停まる音。 「でも、鵜飼さんのことは、…」 「あれは不幸な事故だよ。我々だって鵜飼の研究能力が失われたことを残念に思っているんだ」 鵜飼、… 泥の中に沈んだように重い頭がゆっくりと理解しようと回り出す。 聞いたことのある名前。 どこで。誰が。そう、私のとても大切な人が、… はっと気が付いて起き上がると、頭に衝撃的な痛みが走って思わずうめいた。 「痛、…っ」 頭を押さえてうずくまる。 なにこれ。どこここ。 ずきずきする頭を押さえながら目を開けると、 「ゆりのちゃん、気が付いた? 大丈夫?」 職場のスーパーエリート南条さんが駆け寄って、私の両肩を支えて顔を覗き込んだ。 瞬間。 凄まじい嫌悪感に襲われ、全身が総毛立ち、突如空気が吸えなくなって、恐怖と苦しさで身体中が引き攣って、衝動的に吐いた。 「ちょ、…っ」 当然南条さんはその被害をもろに受けて驚いた声を上げ、 「住川さん、タオルっ。何か、拭くもの持ってきて!!」 大急ぎて指示を出した。 頭の片隅で申し訳ないな、と思う気持ちはあったけど、嫌悪感と苦しさが勝ってどうにもならない。 「薬の量を間違えたんじゃないか」 「いえそんな、副反応が出るような危険な量は打ってません」 「じゃあ、恐怖心か。迷惑な女だな」 「…父さん!」 南条さんが先ほど話していた重みのある声と言い合っている。 自分の置かれた状況をなんとなく思い出したけど、苦しすぎて何も考えられない。ほとんど吐くものがないのに胃が逆流し続けて、生理的な涙がぽろぽろ流れた。 「ゆりのちゃん、大丈夫? 吐けるだけ吐いちゃって、…」 スーツを汚されたにもかかわらず優しいことを言って、南条さんが背中をさすってくれるけど、嫌悪感の衝撃が全身を駆け抜け、震えが止まらなくなる。 「…らないで、…」 「え、…?」 「触らないで、…下さい」 自分の身体を抱きしめて息を喘がせる。 苦しい。吐けるものが何もないのに、吐き気が収まらない。上手く息が出来ない。目の前に黒い斑点がチカチカする。 「そうか、こんな、…でも、…」 背中から南条さんの手が離れ、ショックを受けたような声と共に気配が一歩遠ざかる。 こんなひどい症状に陥ったのは初めてだ。 動悸や冷や汗や足の震え、…吐き気だってトイレに行く間くらい我慢できたのに。 「まさか、病気持ちじゃないだろうな?」 「…彼女には男性アレルギーがあります。でもこのところは全然、…俺が触っても平気だったし、キスマークだって、…」 「そりゃあ雨瀬とやって免疫ができたんだろうよ」 「父さん、…」 「これは良いニュースだな。羽人の遺伝については未知だが、もし遺伝するなら、雨瀬がダメでも子どもに成果が期待できる」 「父さん、…っ!」 好き勝手しゃべっていた重みのある声は、南条さんに咎められて口をつぐんだ。 色々聞き逃せないところはあるけれど、ゼイゼイする息を整えるので精いっぱいだった。這いつくばって床に置いた自分の手を見ると、蕁麻疹(じんましん)が浮かび上がっている。多分、身体中に発生していると思われた。
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