君の傍まであと一秒

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『本当に自分が、誰かに愛したいと思うのなら、愛する努力を怠るべきではないわ。二人の男にうつつを抜かすような女は、一人につき愛の半分しか支払っていないことになる。そういう女は、自分もまた誰かから一人分の愛を貰えないものよ。浮気って、つまりそういうことなの。だから私は、あの人以外と恋愛なんか絶対しないし、させないのよ』  ああ、彼女の言葉は正しかった。私はまだテーブルの上のナプキンも触らないまま、じっとピンクのテーブルクロスを睨むばかりだ。 ――ごめんなさい、お母さん。私、お母さんが思っているよりもずっと馬鹿な女だったみたい。  やや言葉が不器用で、プライバシーを明かさない印象の人だった。その上、長身でお洒落、寡黙だけれど仕事ができるミステリアスなイケメン。克樹に魅かれる女など、数多といるだろう。自分もまた、彼という光にうっかりと群がってしまった哀れな羽虫でしかなかったというわけだ。  居酒屋で飲んで、酔った勢いで思わず彼に抱きつき、そのままホテルへと雪崩こんでしまったのが運の尽き。お酒は都合よく互いの記憶を消してはくれなかった。一言で言って、想像以上に体の相性が良かったのである。そもそも克樹と飲むきっかけになったのが、彼が上司のミスをおっかぶせられて激しく叱責を受け、らしくもなくヘコんでいて見てられなかったからだ。彼は営業部で私は営業事務。直接の上司部下ではないが、一緒に仕事をする機会は多く、彼がどれほど仕事で頑張って来たのか間近で見ていただけあってほっとけなかったのである。  普段けして表では見れない、彼の涙を見てしまった。  それが私の中の母性を刺激してしまったとでもいいか。可愛い、守ってあげたい、なんてことをついつい思ってしまったのである。 『ホテルじゃ、なくてもいいので。……時々二人で、会って貰えませんか』  朝帰りしたその日。彼は少しだけ赤い目で、私にそう言ったのだ。 『絵麻(えま)さんと一緒にいると……本当に、落ち着くんです』  そんなことを言われて、落ちない女がどこにいるのか。私はあっという間に、彼という一人の男に溺れていったのだった。学生みたいに、映画館やボウリングのデートもした。食事をしたり、買い物をしたり、ちょっとしたお泊りだってした。社会人になってから一度も彼氏が出来たことがなかった私にとって(なんせ営業事務部は女ばっかりの部署なのだ、出逢いなどほとんどない)、久し振りの“恋”はあまりにも純粋で、キラキラと輝いて見えたのである。  そう、だから、知らない振りをしてしまった。  彼が本当は結婚しているらしい、という噂なんて。自分が不倫をしているかもしれなんて。ずっと目を背け、本人に確認する勇気を持つことができなかったのである。
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